時間と自己

 「時間と自己」。これは古典的な哲学のテーマである。それは、自己を論じる場合に、特に内的時間経験が大きな意味を有するからであり、古典中の古典と言えるいアウグスティヌスの思索が示唆する通りである。リクールの場合のように、ここに物語を組み合わせることも有益である。
 ここでは、次のような思考実験を行いたい。
 もし、時間を止めることができ、自分だけが自由に動くことができるとした場合に、あなたはどうするか。
 これは、初歩的なSFあるいはアニメなどでありそうな想定であるが、ともかくも、どうだろうか。

 まず、何をすると考えるかで、その人の欲望・願望・希望・願いについて、重要な洞察を得ることができる。あなたは何がしたいのか、これは「自己」を論じるポイントである。

 しかし、ここで、「時間が止まることで静止する世界」(自分の外部)と「自由に動く自分」とをどう区別するかが問題になる。これは一見するほど簡単ではない。この区別をたとえば皮膚の内と外で考えた場合、外が静止した状況で身体を動かすことができるのか、そもそも呼吸は可能か。身体の外の空気も静止しているのだから。身体を動かすためには、身体に接した部分も可動的である必要がある(身体に接した部分については時間は止まらない)。しかし、身体に接した部分とはどの範囲の領域か。
 このように考えてくると、最初に行った想定「もし・・・として場合」がそもそも想定可能なものなのかが問題化してくる。
 しかし、これは、SF的想定の問題というよりも、「自己」とは何かという問いが問題化していると考えるべきであろう。自己と身体、そして外的世界とはいかなる関係にあるのか。これは、心と脳との関係として展開することも可能である。

 また、自己だけでなく、時間についても重要な洞察が得られる。時間は止まったり動いたりするものではない、ということである。カントが時間を感性の形式として論じた意味を再考すべきであろう。

 さて、以上の思考実験は、ほんとうに有益だったのか。
 これが、次の問題である。
 どうだろうか。
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