アガンベン・メモ7

 本日は、東京大学での集中講義の最終日になります。集中講義は、講義する方も、聞く方も大変ですが、講義する方としては、研究テーマについて新たなことを集中的に考える機会となり、得るものがあったといえます。その成果は、いずれ、形にするっことなるでしょう。
 本ブログでは、この期間中、アガンベン・メモを連載してきましたが、メモ自体は、いずれ続きを掲載する予定です。

ジョルジョ・アガンベン『いと高き貧しさ──修道院規則と生の形式』
みすず書房。

「II 典礼と規則」
1 生の規則

regula[規則]、「ローマ法学の伝統のなかでの"regulae iuris"[法の諸規則]の重要性」「この伝統が教父たちにはなじみのものであったに違いない」(86)
「特別な意味においてであるとしても、主格的属格なのだ。規則は現存する法から作り出される」(88)
「信仰から規則が作り出されるのである」(90)
「聖書の闇を照らすために使われる規則は、なによりもまず聖書そのものから生じている」、「テクストの解釈の基準は」「テクストの外にあるではなく、テクスト自体から出てくる。属格は目的格的属格ではなく主格的属格なのだ」(91)
「規則から生の形式が生まれるのではなく、生の形式から規則が派生してくることはありうることである。それとも、おそらくはこう言うべきなのだろうか。動きは二方向に向かっており、無区別の閾の実現へと向かう絶えざる緊張のなかで、規則は、生が規則となっていくそのぶんだけ、生になていくのだ、と。」
「規則は生に適用されるのではなく、生を産み出すのであり、それと同時に生のなかで産み出されるのである。」(92)
「規則と生を容易に区別できないこと」(92)
「規則の記述は生のそれと不可分であるということ」(94)
「構成的と言われる規範」「ある行為を規定したり、ある既存の事物の状態を規制したりするのではなく、それら自体がある行為や事物の状態を存在にもたらす規範」
「ウィトゲンシュタイン」「ゲーム」
「修道士は、チェスのビショップのように、生きていくのに守らなければならない規定の総和によって定義できるだろうか」「その正反対のこと」「すなわち、修道士の生の形式こそがその規則を創造するのだとは言えないだろうか。おそらくっこの二つの定義は両方とも正しい。ただし、それは規則と生はここでは無区別の地帯に入り込んでおり、両者を区別する可能性自体がなくなるなかで、第三のものが見えてくるのを踏まえてはじめて言えること」(95)
「"usus"[使用]と呼ぶもの」
「構成的規則という考え自体が、規則の問題はたんに一般原則を個別のケースに適用することにある」「というような現在流布している表象が無効になってしまうことを含意していることを、ウィトゲンシュタインは示唆しているようにみえる。」(96)
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
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