アガンベン・メモ9

1月2日分の記事です。

3 典礼のテクストとしての規則
「レクティオー[朗読]は最初からキリスト教典礼の本質的要素をなしている。それがユダヤ教の会堂での、おそらくは単調で歌うようになされたトーラーの朗読の実践に由来するものであること」(105)
「教会はユダヤ教の会堂での模範を踏襲していて、最初のころはおそらく一週間ごとに旧約聖書の朗読がおこなわれ、少なくとも二世紀のおわりには新約聖書の諸書の朗読が追加された」、「継続する朗読"lection continua"」「最初の三世紀の間」「五世紀の終わりからは、"lection continua"ではなく、典礼暦の設立にともなって、それに適した引用章句が選ばれ定着していったことがわかる」(107)
「典礼暦がカレンダーに従って高らかにうたわれる神の業の一種の備忘録とも言えるものだとすれば、聖書の朗読は、毎日、そして毎時、聖史の出来事との想起的な関係に人々を置くための卓越した手段と言える。しかしまた、キリスト教典礼を定義する深い意図に従って、朗読は過去の出来事を想起したり記念するにとどまらず、「主のことば」をまるでそれがその瞬間に神の生きた声によって新しく語られたものであるかのように現前させる」、「行為遂行的に現前させる」「典礼朗読のこの行為遂行的性格」(108)
「規則のテクストは、そこでは文書と朗読が渾然一体となる傾向があるだけではなく、文書と生、存在することと生きることが、生が全面的に典礼に転化するとともに典礼が同じく全面的に生に転化するなかで、まさに識別不能になるテクストなのだ」(110)
「修道院規則の深層構造と狭い意味での典礼書のそれとのあいだにある特別な類似性が出てくる」、「ここからは、両者間のさまざまな相違と緊張も出てくるのであって、それはなんらかの仕方で教会史全体をつうじて遍在しつづけることになる」
「修道士のほうでは、そのような分離を消し去って、生の形式を典礼とし、典礼を生の形式とすることによって、両者のあいだの緊張に満ちた識別不能の閾を構築するのである」、「聖務日課の」「秘跡の儀式に対する優位性」「修道士と司祭のあいだの確固とした区別」(111)
「聖職にふさわしくない司祭であっても、そもかく司祭であり続けており、その者が執り行う秘跡は効力を失わないのに対して、修道士にふさわしくない修道士は端的に言って修道士ではないのだ」
「プロテスタント宗教改革は、正当にも、アウグスティノ会修道士のルターが提起した、教会の典礼に対抗する修道院の典礼の仮借ない権利要求であったとみることができる。」(112)
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
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