アガンベン・メモ12

ジョルジョ・アガンベン『いと高き貧しさ──修道院規則と生の形式』(みすず書房)からのメモの続きを掲載します。メモが完了するのもあと少しです。

「Ⅲ〈生の形式〉」
「2 法権利を放棄する」
「フランシスコ会士たちにとって最初から最後まで不変でありつづけており、交渉の余地のなかった原則は」(146)、「法権利の外において人間として生存していくことの可能性であった」、「何らの法権利、(所有権も用益権も)もたない財を修道士たちが使用することの正当性であった」(147)
「フランシスカニズムは絶対的に法権利の諸規定の外にあって人間としての生活と実践を実現しようとする試み」、「法権利によっては達成できないこの生を<生の形式>と呼ぶならば」(147)
「生の形式と動物の生と同一視しようとする傾向」(147)、「動物たちが人間化されて「兄弟」に転化した」、「修道士たちは、法権利の観点からは、動物たちと同等視されているのだった」(148)
「生に対する法権利の無効化」「「小さき者」ゆえに」(148)
「法律上なにひとつ所有する能力が与えられおらず、所有権は父のみにあり、彼自身は物を使用することができるにすぎない」「彼らが生活を維持していくために受けとる物に対する所有権は貧しき者たちの父に委託され、使用のみが彼らに許されると理解すべきである」(149)
「財の本源的共有の教説」「無原罪の状態にあったときには「自然法によって万物は万人のものであった」。そして所有とあらゆる人間の権利は堕落とカインによる都市の建設とともに恥じますのである」、「「神のために自発的に所有権を放棄すること」」「この放棄と、そこから帰結する所有と使用の分離の正当性の根拠を、各自が自らの自然本性を維持するよう要請する自然法のうちに置いている」、「堕落以前の自然状態への復帰」「所有と使用の分離は」「フランシスコ会士たちが「貧しさ」と呼ぶ特有の状態を専門技術的に定義するために使用する」(150)
「必要状態というパラダイムの独創的な一般化であり、同時にそのパラダイムの転倒」(151)
「オッカム」「すべての人間に共通で必要な場合にのみ適用される」「自然的使用権」と「「なんらかの制定法もしくは人為的な協約」に由来する」「実定的使用権」を区別」、「小さき兄弟たちは、彼らが使用する物に関するなんらかの実定的権利はもっていないが、自然権的権利は、ただし極限の必要性に迫られた場合だけに限ってもっている」、「使用の許可は使用の権利ではないということ」、「あらゆる所有、物を自分のものにするあらゆる能力を放棄したが、自然的な使用権を放棄したわけではない。それは自然的な権利であるかぎりで放棄しえないのだ」(152)
「オッカムの戦略の細密さ」「それはいわば法権利の外側と同時に内側に身を置こうとしている」、「小さな兄弟たちが例外状態を逆転させると同時に絶対化しようとしていることを意味している」
「あくまでも必要性が小さき兄弟たちを規則から免除し、彼らを法権利(自然的な)に引き戻すのであって、必要状態の外では、彼らの法権利となんの関わりももたないのだ。このように、他の人々にとって通常であることが彼らにとっては例外になり、他の人々にとって例外的なことが彼らにとってはひとつの生の形式となるのである」(153)
「法的装置」「規則」「規則そのものは法的装置ではなく、例外状態も法的装置としては定義されえない。それ[法的装置]はむしろ、フランシスコ会士たちの生の形式がそこで法権利を触れる閾なのだ。」(154)
「礼典との関係のなかでは、共住修道院は、生を典礼に変容させようとする方向と、典礼を生に変容させようとする方向との、二つの相反する緊張が走る力の場のようにみえた」、「"officium"[聖務]」が「生と規範の存在と実践の無差別の閾を設定しているのだとすれば、同時に教会は、生と典礼のあいだの区別、"opus operatum"[なされた業。授与によって実現・発効する秘跡]の教義と、"opus Dei"[神の業]の秘跡効力において頂点に達することとなる個人と職能とのあいだの明確な区別を断固として主張する。」(155)
「修道士は彼の生の形式によってのみ定義すれる存在であり、それゆえ、ふさわしくない修道士という観念は語義矛盾を含意しているとさえ思われる」
「修道院の生活状態が司祭のはたす聖務」「との相違をつうじて定義されるとするなら」「相違が希薄になっていくと、それには修道士たちの聖職者化と教会へのますます高まりゆく統合が対応することとなり、一方、相違が強調されると、それには修道会とローマ聖庁とのあいだの緊張と衝突が対応することとなるだろう」
「十二─十三世紀におけるさまざまな宗教運動の爆発的広まりのなかで、これらの緊張は危機的状態に達する。宗教運動がなによりもまず問題視していたのが、"opus operans"[秘跡の授与]と"opus operatum"[なされた業]の分離という原則であったこと」(156)
「ヴァルド派」「秘跡を授与する権限は"ordo"[典礼書に定められた規則]や"officium"[聖務]ではなくて、執行する者がそれにふさわしい人物だということに由来するという原則は、権限や位階制の継承に関わる問題ではなく、使徒的生に倣うことに関わるということなのである」(157)
「異端との烙印を押された事柄」「聖務ではなく生の形式を決定的に問題にしようとする精神的態度から生まれた必然の結果」(158)
「フランシスカニズムは、同時代の他のいかなる宗教運動よりも徹底的に、そして他のあらゆる修道会以上に、<生の形式>、すなわち自らの形式から切り離されることができないでいる生の発明であるということ」、「生が徹底して法権利と典礼の外にあったから」
「修道医制度は」「あるひとつの生き方の発明」「祈りと聖務日課の先例のない強化」(161)「小さき兄弟たちの会の生を、不断の礼典ではなく、その新しさが市民法と教会法のいずれからも完全に外にあるような一要素とした」、「聖なる福音の形式に従う生き方は聖なるローマ教会の形式に従う効き方とはあまりにも違う平面に身を置いているため、教会と衝突することはない」、「"altissima paupertas"[いと高き貧しさ]」(162)

 修道院の伝統におけるフランシスコ会の位置づけについては、熟考を要する。たしかに、12世紀から13世紀にかけての民衆的な広がりをもつ異端運動の意味は、スコラを超えて、その後の宗教改革までのキリスト教史を読み解く鍵である。
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