アガンベン・メモ13

ジョルジョ・アガンベン『いと高き貧しさ──修道院規則と生の形式』(みすず書房)からのメモ。いよいよ議論も山場あるいは結論。フランシスカニズムが何を目指したか、どうして袋小路に陥ったか、そしてどのような道があり得たか、いった議論がなされている。

「3 いと高き貧しさと使用」
「フランシスコ会士の生の特徴をあらわすために"usus"[使用]という概念を導入した」
「ディーニュのフーゴーとボナヴェントゥーラ」(163)
「フランシスカニズムの歴史における危機的瞬間は、ヨハネ二十三世が勅書『アド・コンディトーレム・カノヌム』によって所有と使用の分離を可能性を問いに付し、このようにして、小さな兄弟たちの修道会の貧しさ(paupertas)が根拠としていた前提そのものを取り消してします瞬間である」(172)
「この勅書の議論は」「そこで提起されている純然たる存在論的な問題は、濫用(すなわち破壊)でしかない使用が所有権として以外に存在したり所有されたりすることがありうるかということなのであった」(173)
「形成途上にある行為は」「記憶か期待の中にのみ存在する。すなわち、それは瞬間的な存在であり、そのようなものとして思考することはできるが、所有することはできないのだ」
「ヨハネス二十三世は使用と消費を徹底的に対置させることで、何世紀ものちになって消費社会において実現されることになる、使用することの不可能性のパラダイムを無意識のうちに予言して提供している」、「たんある使用はけっしてありえないということと、濫用のほうはつねに所有権を前提としており、ひいてはつねに自分のものであるとおうこととは、大量消費の基本形式そのものを示している」、「所有はそれがまさしく物の消費と結びつくまさにその時に明確になるのである」(174)
「フランシスコ会の理論家たちは、事実上の使用を所有権からの分離する可能性と正当性を執拗に強調する」、「彼らは所有に対する使用の正真正銘の原初性と異質性を主張するにいたるのだった」、「使徒たちの生では、共有していたのは所有ではなく使用のみであったと主張していた」「空気や太陽の光」「自然と神の法」「物の共同使用は、系譜的にも、もっぱら人間の法に由来する物の共同使用または分割所有に先行しておこなわれていたのである」(175)
「消費財は形成の途上にあるように、その使用もまた形成の途上にあって継起的なのだ」「使用はここでは時間からなる存在として姿を現しており」(176)
「法権利に対する使用の異質性と優位性はオッカムによってはたんなる使用行為(actus utendi)と使用権(ius utrendi)の本質的相違というかあっちで定義される。」(177)
「法権利に対するフランシスコ会士たちの姿勢の両義性」「オリヴィの問い「だれが権利もしくは所有を設定するのか」において」「このオリヴィの問いは、法権利と記号/しるしの存在論を」「内包している」、「法権利の領域を記号/しるしの領域に連結するのは偶然ではない」、「人間社会」「を規制し統治する権力の根拠となる存在」(179)
「オリヴィの結論」「問題となるもろもろの現実は」「本質」「の平面ではなく、単に存在」「の平面に位置しているに過ぎないことを意味している」、「これらの現実は、ハイデガーが何世紀もあとになって書くこととなるように、純粋に実存的なものであって、本質的なものではないのだ」(180-181)
「いわば実存主義的であって本質主義的ではない存在論がはっきりと表明されているのがみられるということである」、「法権利と[神意の]しるしに実効性が認められた瞬間、それらは本質の平面から免除され、もっぱら人間または神の意志の命令に依存する純粋に現実存在的なものとして通用させられるということを意味している」(181)
「秘跡という特殊な記号/しるしの場合と王の権威の場合においては、それらの効力の基礎は最終的に神意のうちに求められるべきであるという事実」、「ここで問題になっている存在論は純粋に活動性本位であり実効的なものなのだ。法権利との衝突」「というよりむしろ、使用を通じて法権利を不活性にし作用しないものにしようとする試み」「は、法権利と典礼の作用がはたらくのと同じ純粋に実存的な平面に身を置いて展開されている。生の形式とは、法権利と聖務日課を印しづけているもろもろの記号/しるしから自由になってなされなければならない純粋に実存的なもののことなのである」(182)
「パリの世俗の教師たちやアヴィニョンの教皇庁は、フランシスコ会によるあらゆる携帯の所有の拒否を問題視したのだった」、「基本的に法権利との関係で貧しさを定義しようとしたものであったために、結果的には両刃の剣となり、ヨハネス二十三世によってほかでもない法権利の名においてしかけられる決定的な攻撃へ道を開くこととなった」(183)
「放浪修道士の小さなグループ」
「フランシスコ会の理論家たちの議論は、法権利を過大評価すると同時に過小評価したことの結果であったすることができる。彼らは、一方では、法権利の概念を利用していて、それの妥当性や根拠をけっして問題視しようとしていない。そして他方では、法権利を放棄することによって法権利の外での生存を導き出す可能性を法律的な論拠によって確保できると考えている」(184)
「しかし、このことは法権利の構造自体を認識し損なっていることを意味している。法権利は構造的にfactum[事実]とius[権利]を区別する可能性に基づけて分節化されており、両者のあいだに、事実が法権利のうちに包含されるさいに通過する無区別の閾を制定する」「サヴィニーは一貫性をもって、物を所持することを、「法律上の状態としての所有に対応する事実上の状態」と定義することができた」(185)
「使用の事実的性格は、それ自体としては、それが法権利の外にあるということを保証するのに十分ではない。なぜなら、どの法権利も事実的側面を含みうるように、その事実も法権利に変容しうるからである」
「フランシスコ会士たちは、貧しさの「脱所有」的性格」「と、物を"ut non suae"[自分のものではないものとして]使用することであらゆる"animus possidendi"[所有の意志]の拒否を強調しなければならないのである。しかし、このようにして、彼らはますます法的概念の圏域に巻きこまれていき、最終的にはそれに凌駕され敗北することとなるのだった」(186)
「フランシスコ会士たちは使用を法律的用語でもって正当化することに心を砕いていたため、パウロの書簡に出てくる使用の理論のためのヒントを受け入れることを妨げられてきたのだった」(186-187)
「パウロの書簡では、とくに「コリントの信徒への手紙一」七・二〇─三一で、キリスト教徒の生の形式を、この世の物を利用する者はあたかも利用も濫用もしていないかのようにふるまうことと」「定義している」
「このパウロの定義を利用すれば、ヨハネス二十三世の"abusus"[濫用]としての消費物の使用に関するテーゼを論破するのに有益な根拠を手にすることができたはずなのだった。」
(187)
「使用と行為ないしエネルゲイアであるとするこのとらえ方に固執しつづけたことは、使用の"actus intrinsecus"[内在的行為]の性質を強調するコンヴェンツァル派と、それが"actus extrinsecus"[外面的行為]になるよう要請するスピリチュアル派のあいだの要するに不毛な抗争のなかに、フランシスコ会の使用の理論を閉ざしてしまうこととなった。しかし、使用を法権利の放棄という一連の事実的な行為としてたんなる実線の平面に閉じ込めてしまうのではなく、それを小さき兄弟たちの生の形式との関係のなかで思考しようと試み、どのようにすればそれらの行為が"vivere secundum formam"[形式に従って生きること]となり、身についた振る舞いになるなりうるかを問うほうが、はるかに実り多かったはずである」(188-189)
「この展望のもとでは、使用は、法権利と生、そして潜勢力と現勢力に対して、第三の要素として姿を現し、」修道士のたちの生の実践そのもの、彼らの<生の形式>を──否定的にだけでなく──定義することができたに違いないのだった」(189)
「十二世紀から」「"consuetudines"[慣習]またはときに"usus(usus conversorum)"[回心した者=修道士の慣わし]と呼ばれるテクスト群が誕生しはじめ、それはもったあとになって「デヴォーティオー・モデルナ」"devotio moderna"[新しい信心]の運動」「において最高度の発展をみることとなる」(189)
「法権利の放棄と法権利の外にある生」
「ここでは"usus"はもはやたんなる法権利の放棄ではなく、あるひとつの生の形式と様式のなかでこの放棄を構成するところのものなのだ」
「生の形式の平面とこの決定的な重要性が十分な理論的自覚に達し、ひいては初めて終末論的なかたちでの明示的な正当化にも達するのは、オリヴィのあるひとつのテクストにおいてである」
「オリヴィは」「ヨアキムのテーゼを受け入れ、それに第七の時代として永遠を付け加えている」、「第六と第七の時代の卓越性を定義しているものは、たんなるキリストの「ペルソナpersona」の出現ではなく、その「生vita」の出現である」(191)
「歴史神学を考察」
「聖霊の時代の到来は、キリストの「ペルソナ」の出現」「としてではなく、その「生」の出現と一致し、それは新しい律法だけでなく、すべての生の終局と完成を構成するのである」、「最終の時にはフランチェスコが「世界にキリストの生をもたらし刷新するためにad introducendam et renovandam Christi vitam in mundo」選ばれたのだった。」
「フランシスコ会のメッセージの特殊な終末論的性格は、新しい理論となって表現されるのではなく、あるひとつの生の形式となって表現されている」(192)
「すべての生の究極(finis omnium vitarum)、最終の"modus"[様式]であって、そのあとでは"modi vivendi"[もろもろの様式]の多種多様な歴史的配分はもはや可能ではなくなる。「いと高き貧しさ」とその使用のかたちは、西洋のすべての生の形式が歴史的消尽に達した時に始まる<生の形式>なのだ。」(193)
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