「わたしはある」をめぐって2

 昨日は、「本日の研究メモはここまでである」で記事を結んだが、若干の補足、続きの議論を展開しておきたい。

 「わたしはある」は旧約から新約に展開された聖書的思惟の一つであり、「ある」と「である」との、存在と行為との内的連関として解釈できることまでは、前回の議論である。ここから先にどのような思索が可能であろうか。

 まず、神概念自体のレベルで、「ある」と「である」は、神自体についていえば、神の「超人格性」と「人格性」との内的連関、神自体と神表象の内的連関に関わっており、キリスト教神学的に言えば、三位一体についての「内在的」と「経綸的」の内的連関、あるいはテオロギアとオイコノミアとの内的連関へと展開できる。こうした展開を可能にするのは、「ハーヤー」と「オン」との関連付けである。
 こうした思索が、神秘主義、否定神学(と肯定神学)、アナロギア論といった論理から敬虔をカバーする問題領域におよぶことは言うまでもない。
 
 次に、神と世界との関係のレベルで(そもそも「ある」と「である」の連関は、神と世界との関係を前提としている)、超越と内在、啓示といった問題へと展開される。ここで重要になるのが、神と世界との関係における、創造と救済の二重性であり、「である」に関わる言明は、創造と救済が、さらに自然と歴史の二重性との関わりで問題化することを示している。この際に、創造から歴史への飛躍あるいは罪・悪といった問題系が関連付けられることになる。

 さらに、思索は、世界あるいは人間の活動自体のレベルへと展開されるが、キリスト教思想において、このレベルと先の神と世界の関係のレベルとを繋いでいるものとして、創造に即して言えば、「創造された共同創造者」(ヘフナー)によって表現される人間の位置である。神の創造は人間の文化創造へと展開され、ここに啓示から宗教、そして文化という連関が広がってくる。「宗教と文化」という問題系は、キリスト教思想的には、神と世界との関わりの問題系に接続あるいは含まれることになる。まず、「啓示/宗教」があり、それに「宗教/文化」が接続する。

 以上は、あくまで一つのスケッチであるが、「ある」と「である」がキリスト教思想にとっていかなる位置を占めているかについては、一定程度イメージいただけるであろう。
 このように見ると、アガンベンの政治哲学(特に、『王国と栄光──オイコノミアと統治の神学的系譜学のために』)がキリスト教神学と密接な連関を意識して展開されていることも了解可能になるはずである。
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