「政治の神学」の古典としての南原1

 わたくしは、昨年度後期から、演習で南原繁『国家と宗教』を読む作業を始めているが、今年度の前期後期を使って、この古典的文献を読み上げる予定である(その間に、南原について論文を一つ書くことにもなっている)。この著作をめぐっては、南原研究を超えて、より広い文脈での評価が必要に思われる。南原自身も意識では、この著作は「政治哲学」に属するものであり、また、いわゆる「政治神学」(カール・シュミットによって20世紀の思想世界に一定の位置を占めることになった)とも当然その関連が問うことは可能である。(政治神学をニュートラルな用語として用いることができるならば、「政治神学」という言葉がぴったりなわけではあるが。自然神学と同様に、政治神学も、すでに一定の価値判断と緊密に結び付く仕方で流布しており、中立的な概念に戻すことは、必ずしも容易ではない。)
 しかし、本ブログでは、まだ概念的にあいまいな段階の用語であるが、この南原の著作に「政治の神学」という概念を適用することにしたい。むしろ、南原を論じる中で、「政治の神学」という用語の方を厳密化するという手続きとなるだろうか。

 本ブログでは、当面は、南原のテキストからポイントを抜き出し、それにコメントをつける形で連載を行うことにしたい。一定程度、抜き書き・メモが区切りになったところで、中間的なまとめを行いたい。

 また、以上とは別に、本ブログで南原を取り上げる意図の一つは、1930年代から60年代にかけての厳しい時代の中で思索をした思想家の再評価を行うことにある。現代の日本の政治哲学において、南原はすでに過ぎ去った過去の思想家なのだろうか。たとえば、岩波講座『政治哲学』(全6巻)では、「この講座のもう一つの特色は、ヨーロッパおよび北アメリカの一六世紀以降の思想に焦点を当てていること、とりわけ二〇世紀以降の思想や理論に重点をおき、全体の半分の巻を充てていることである」(編者「刊行にあたって」から)と言われるように、南原などの政治思想には議論の場が割り当てられてはいない。
 南原の政治思想・政治哲学は、その方法論において、新カント学派に依拠している点でも、過ぎ去った思想という印象を生じることになっているものと思われるが(波多野精一についてもこれはある程度当てはまる)、おそらく、新カント学派の問題は、単に忘却されて済む事柄ではないのではないだろうか。思想世界の流行に敏感なことは重要な資質ではあるが、そもそも思想の事柄・問いとは何かを問い直すことは、さらに重要であるように思われる。南原をそのような視点で読み進めてみたい。
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