『福音と世界』から

『福音と世界』2016. 6(新教出版社)が届きました。表紙(八木美穂子さん)は、今回の特集に合わせたものと思いますが、熊本地震への祈りが添えられています。

今回の特集は、「聖書と食」です。
 「食」は、現在、さまざまな分野で取り上げられているテーマであり、みじかなものと言えます。しかし同時に、イエスの宗教運動を理解する上で、「食」「食卓」はキーワードであり(たとえば、クロッサン)、聖書を論じるとき、食という切り口は不可欠のものとなっています(食卓における神の国、あるいは食卓としての神の国)。今回の特集は、重要な論点であり、さらに「食と農」となると、日本の問題状況もこれに関連していることが見えてきます(TPP)。

・「いっしょにメシを食う福音──イエス運動とは何だったのか」(渡辺英俊)
・「他者との出会い、共に食べる──共食と境界のコミュニタス」(賈晶淳)
・「孤立から支えあいの街づくりまで──コミュニティとしての食」(中村あずさ)
・「「食と農」から人間の根源を問う」(古沢広祐)
・「イスラームにおける食事と「ハラール認証」という障害」(前野直樹)
・「旧約聖書と食」(池田裕)
 
 今回は、特集とは区切られているが、続く次の論考は、「食と農」と結び付く。
・「「農村伝道」は「失敗」だったのか──もういちど考える」(星野正興)
 論者も論じるように、「農村伝道」は日本のキリスト教伝道で一定の位置づけと役割を担ってきた。しかし、その総括もなされないまま、いわば風化しようとしている(無反省・無思考という悪弊を日本のキリスト教も共有している)。日本のキリスト教が都市へシフト=集中したことの意味を「農村伝道」から問い直すことが必要なはずである。
 かつて、「農村伝道」との密接な関わりで、幼少年時代を過ごした者として、これで終わって良いはずはないと考えざるを得ない。

次に、連載(ほんの一部ですが)から。
・一色哲「南島キリスト教史入門」20
 「「植村人脈」と南島のキリスト教(一) 旧日基那覇教会の形成と富士見町教会」

「南島のキリスト教伝道の特徴は、二つのベクトルを持っていることである。「完結型」のメソジストは土着のベクトルを、「貫流型」の旧日基は交流による活性化のベクトルを、それぞれもっていた。その二つのベクトルの相乗効果が南島のキリスト教に深みと広がりをもたらした。
 その旧日基の日本における指導者であった植村正久は、台湾や朝鮮半島といった旧植民地への伝道にも強い情熱をもっていた。」(62)
「植村の影響」「ひとつ目」「旧日基鎮西中会を中心とする九州かた南島地域を貫流し、台湾に至る伝道者の流れ」「旧日基那覇教会」。「ふたつ目」「」旧日基の中心的教会である富士見町教会に集まった沖縄出身の群である。」

 なるほど、植村正久、富士見町教会の働きが、ここにも足跡を残している。これに匹敵する動きを現代のキリスト教は生み出しうるのか。

・内田樹「レヴィナスの時間論」:「『時間と他者』と読む15」
今回の議論は、「被投性」「ある(イリヤ)」から。

 「「ある」とは「実存者なき実存すること」である」は、「ハイデガーが「現存在」に与えた定義」、「「おのれに負託されたその使命を発見し、実現することを通じて、いわばより完全に、より徹底的におのれ自身になるもの」と照合させてみると、不意に生々しい相貌をあらわにする。」

 ここまでは、前回の議論の復習。
 「ハイデガー仁がそのことにどれほど自覚的であったのか私は知らない」、「「加害者」には傷つける意図がないふるまいでも、「被害者」は深く傷つくことがある」。
「けれども、ハイデガー存在論からジェノサイドを阻止するための原理的知見を引き出すことができないというのは動かし難い事実である。」
 ここは、ハイデガー研究では当然争点か。

 「「私はここにいない」ということを周囲に理解されることによってしかそこにいることができないという背理」
「このような事況」「無ではない」「それは「あらゆるものを想像的に破壊し尽くした後に残るもの」なのだが、形ある「なにか」ではない。それは「なにものかがある」のではなく、「なにものか」抜きの、端的に「ある」という事実なのである。」(53)
「不在の現前」

ここで、カバラに議論は少しそれる。

 「不在の現前」は「1946年のパリのユダヤ知識人である聴衆にとってはきわめてリアルなものだったのである。」(54)
 「『時間と他者』という講演」「レヴィナスに託された喫緊の思想的課題は「ハイデガー的風土」との訣別であり、喫緊の実践的課題は壊滅しかけたフランス・ユダヤ人共同体の霊的かる組織的な再構築であった。」(54)

 「トラウマ的体験について、その出来事はいったい何だったのかを理解すること、その傷からの自己治癒はいかにして可能かを知ることを切望していた聴衆に向かって語ったのである。」
「『時間と他者』は世俗と無縁の純粋哲学などではなく、そこではハイデガー哲学と社会問題が同時的に論じされているのだ」(55)

 思想の社会史的研究とは、こうしたレベルに届くものとして考えられねばならない。些末な「事実」を興味本位で列挙して、新発見ということでは、それは単なる趣味的「研究」にすぎない。暇になったら、読んでみようか、といったところ。
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