南原繁演習より6

 南原演習も、『国家と宗教』の第2章「キリスト教の「神の国」とプラトンの理想国家」に入りました。前回は、「二 キリスト教出現の意味と神の国の根本特質」(5月30日)の前半です。
 いよいよ、キリスト教へと議論が進みます。議論の展開は、次のようになっています。
1.古代世界の精神状況:ポリスから世界主義へ。ローマ帝国の圧政。自由の渇望と新しい哲学の展開(道徳主義と神秘主義)
2.キリスト教の宣教内容としての「神の国」。その特質をプラトンと比較する。「神の国」の革命的意義。
3.純粋に精神の王国、愛の共同体
4.ユダヤ教との相違
5.まとめ

 以下、それぞれのポイントとなる箇所を抜粋。
1.「プラトンと彼を嗣いだアリストテレスの偉大な天才をもってしても、崩壊してゆくギリシャ国家生活と国民思想を挽回することは不可能であった」(79)
「時代はここに一転したのである。政治的には、いまや都市国家の時代は過ぎ去り、新たに「世界主義」の日が到来しつつあった」(79)
「広大なローマ帝国の治下においても相違はなかった」、「強大な一個の強制的権力機構」「社会の根本原理は個人」、「巨大な一人の専制的圧迫の下」(80)
「かような不幸な状態を打ち超えて、真に内的な自由を求めて喘いでいたのである」(81)
「移ろいゆく世界に処して自己を守り、いかにして愉しく朗らかに生くべきか」「エピクロスやストア派の人生哲学」「「賢者」の道」「少数知者の徳の教」
「この実在の世界の外に超越的な神的実在を考え、人はこれと融合一致すること」「救いを求めようとする新ピタゴラスあるいは新プラトン学派の宗教哲学」「畢竟、自らの思惟の力によって」(81)
「「神秘主義」」「一つの知的認識」「少数者の精神的貴族主義」(82)

2.「キリスト教によって宣布されたものは、「神の国」」(82)
「救済は」「神から来なければならない」「形而上学的ないし神秘主義的宗教とは異なるものである」(83)
「人間智を絶したひとりの絶対的な神自身の業」「神の側において大きな犠牲なくしてはなし得なかった」「遣わされた神の子イエスの人格とその十字架の犠牲」「媒介者はまさにイエス・キリストであり、彼の死と復活とによって罪の贖いと「第二の人」の創造が約束」「もはや認識(Erkenntnis)の問題ではなくして、純粋に信仰(Bekenntnis)の問題である」(84)
「神の側からの絶対の恩恵」「プラトンにも見られるような、仮相の世界からイデアの世界への上昇するかのごとき形而上学的解脱ではなく」「絶対者に対する人間の回心と信仰との問題」(85)
「悩める者・虐げられた者にとって真の「福音」であり、あたかも当時、ギリシャ・ローマ文化の潮流に打ちひしがれていた一般民衆にとっていかなる大なる「革命」であった」(86)
「人間本質の転回」「新しい人格概念」「自由な個性」「人格の甦生」(86)

3.「社会共同体関係についても古代国家とは異なるまったく新しい理想を提示」(87)
「権力と権利のための結合や、または戦争と経済のための組織の理念ではない」(87)
「ギリシャ的文化国家の理想でもない。ただ神の栄光を中心とし、キリストの霊によって充たされる純粋に精神の国」「「愛の共同体」」「神を中心としてついにすべての民族・全人類にまで及び得る絶対の「普遍主義」」、「神の秩序」「終末論的世界観」「神の愛において生きる人びとのあいだに神の国はすでにある」
「いわゆる政治的な国家または社会的な組織とは差しあたりかかわりのないこと」(88)

4.「「神の国」の原形態は、古代東方のイスラエルにおいてであった。」(88)
「ヘブライ主義」「神の手によって、未来の理想社会「神の国」の実現を待望する」「民族的な政治意志と深く内的に結合されてあった」(89)
「そこには祭司の階級があり、国王はそれを通して神に立てられた者として国民の上に臨むのである。これはイスラエルに特有な「神政政治」」「「選民」の思想」「彼らが待望した救世主は、実はそうした偉大な国王、地上の君主としてであった」(90)
「イエスが自ら神の子としての自覚に立ち」(90)
「一面」「ユダヤ国民の伝承から摂り入れた」、「しかし、他面、彼において新しいのは、かようなイスラエルの観念から一切の政治的国民的要素を彫刻して、これを純粋に宗教的内面の要求に至るまで高めたことである」、「宗教の内面的「単純化」」、「福井委すらエスのメシア思想の純化」、「もはや血縁と地縁とによってつながる社会的関係でなくして、純粋に神の霊の紐帯によって結ばれる愛の共同体」、「非合理的な「愛」」(91)

5.「神の義は愛と結合」「ギリシャにおけるごとき人間的な理性と価値とが結合の紐帯ではなくして、神の愛によって結ばれる、絶対的な新しい社会共同体の理想である。それは何らかの組織として構想されなかったと同時に、また理論として説かれたのではなかった。少なくともイエスによって宣示され、純粋の福音として原始キリスト教のあいだに保持された原型はそうである。」(82)

 南原の「神の国」理解は、当時(1920年代から30年代)の新約聖書学の議論に依拠したものと言える。注には、トレルチ『社会教説』、ハルナック『キリスト教の本質』の書名が見られる。南原の「神の国」は福音書に基づくものであり、アウグスティヌスの「神の国」については、本書全体でも、それほど立ち入った議論は見られない(「神の国」と「地の国」という対はよく見られるものの)。
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