政治神学とエウセビオス

 現在、京都大学の特殊講義では、自然神学に関連したこの5年ほどの間の講義内容を、キリスト教政治思想とのテーマに即して、まとめる作業を行っている。これまで、聖書の契約と王権を扱い、ローマ帝国という文脈に問題を進めてきているが、ここでの大きなテーマは、迫害と国教化であり、それぞれ政治神学の問題に大きな意味を有している。もちろん、議論はキリスト教神学の成立自体に関わる根本的な問題に及ぶことになるが。
 本日の特殊講義は、国教化とキリスト教的政治神学の古典的議論(「古典的」とは、どの時代のキリスト教的政治神学を論じるにせよ、この4世紀の議論が前提条件になるという意味である)とを論じる予定であるが、ここで重要になるのは、一人はエウセビオス、もう一人はアウグスティヌスである。
 キリスト教神学(あるいは宗教としてのキリスト教)の成立を考える上で、キリスト教的歴史観(キリスト教起源神話といってもよい)はその不可欠の前提をなしている。つまり、まず、古代イスラエル宗教と初期ユダヤ教の伝統にイエスの宗教運動を接続し、それをさらに新約的伝統に連続的につなぐ作業である。その原型は、パウロとルカ文書によって行われた。しかし、この連続体をローマ帝国において国教化されたキリスト教会にまで及ぶためには、エウセビオスの歴史解釈の作業が必要になる。それを示すのが、有名なエウセビオス『教会史』である。
 この『教会史』は、キリスト教史の古典中の古典であるが、同時に政治神学の基本文献であることに留意しなければならない。そもそも歴史解釈は政治的意味を常に伴ってきたのである。
 邦訳としては、次のものが存在する。

エウセビオス、秦剛平訳
『教会史』
山本書店(全三巻)→講談社。

 山本書店刊行の第三巻の「訳者はしがき」には、次のような文章があるので、紹介しておきたい。

「日本のキリスト教の歴史に百家争鳴のにぎやかな時代が欠落しているのはどうしたことだろうか。例えば、歴史家は神学者からをはなから相手にしないし、神学者は神学者で、歴史家と論争するな、という託宣(オラクル)でも受けたかのように歴史家にたいしては沈黙する。これでは論争の時代が形成されるわけがない。しかし、日本のキリスト教が論争の時代を欠落させるならば、そこからはキリスト教を完膚なきまでに打ちのめしたケルソス(後二世紀後半)やポシフュシオス(後二三四─三〇一年)のような魅力ある論客は輩出しないであろうし、またオリゲネス(後一八五─二五四年頃)のように真に偉大な護教家も生まれないだろう。」(2-3)

 秦先輩の指摘は、キリスト教研究のますますの細分化・専門化を考えれば、もっともなものであり、論争不在は、キリスト教研究とそれ以外の人文社会諸学との間においてこそ、深刻であると言うべきかもしれない。もちろん、比較的研究者の層があつい(?)研究分野である、聖書学やバルト研究においては、それぞれに論争が行われてきたのは確かであるが(その論争が生産的であったかは評価が分かれるだろう)、その状況も現在は停滞しつつあるような印象である。
 しかし、政治神学といった研究領域は、キリスト教研究のみで可能になるものではなく、他分野との論争が研究の進展のために必要である。そのために構築されるべきは、キリスト教思想の側における自然神学である、というのが、本ブログの基本的主張である。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR