南原繁演習より7

 南原繁 『国家と宗教』をテキストにした演習も、第2章「キリスト教の「神の国」とプラトンの理想国家」に入り、今回まとめるのは、「二 キリスト教出現の意味と神の国の根本特質」の後半(6月6日の演習)になります。
 イエスの「神の国」の基本的な説明、特にギリシャ的プレトニズム的な政治哲学・神政政治とユダヤ教的な神政政治との相違という中心的な論点は、すでにこの節の前半で示されており、後半は、パウロへの言及があるほかは、基本的論点を別の角度から説明し直す、補足するといった内容です。
 論の展開に沿って、まとめます。

1.プラトンのエロスとキリスト教的愛の相違。「精神的貴族主義に対して」「福音的平等主義」(95)
・「エロス」「イデアの世界へ上昇」「善・美のイデアを共同する人間的文化的関係」「イデアに対する人間の生の情熱」「」ヒューマニズムの契機」(93)
・「ユダヤ主義における「義」」「絶対者である神との関係に核心が置かれてあった」(93)、しかし、「「律法主義」」「に堕するとき、単なる合法則性の概念となり、・・・」「イエス出現直前のユダヤの実情」「ユダヤにおいては宗教は直ちに国民的政治生活と結びついて、神の国は直ちに政治的社会概念となりおおせたのであった」(94)。
・「キリスト教における「愛」(agape)の本質は、キリストの詩と復活とにおいて顕われた神の愛」「この愛を信じて絶対者である神の前に無条件に自己をささげることである。」「律法による合法則的な行為の概念から、純粋な信仰の心情の動機への転回」(94)、「純粋に宗教的関係」、「神を中心として結ばれた愛の共同体の関係が神の国である。」(95)

2.プラトンとの対比、哲人国家と「神の国」。
・「ギリシャ国民国家の復興」「エクスターゼ(ekstase)は彼の哲学の最後の隠れ場」(95)
・「人びとは自らが知り、自らが体験することでなくして、支配者の権威の定めた信条を遵守すれば足りるのである。これがプラトンにおける「神政政治」(Theoctatia)の思想」、「イスラエルに固有な神政政治のほかに、われわれはここに一般に古代世界に共通の政治形態の形而上学化、その最も深化された理念を見るのである」、「政治的社会の価値が前面に現われ、宗教も国家のうちに包摂され、科学も芸術も一切が国家生活の裡に吸収され、厳格な全体的統制のもとに置かれる」、「法律国家論の基礎をさすものは、もはやイデア論ではなくして、国民の既成宗教とその神学がこれに代わるのである」(96)
・「キリスト教においては」「キリスト自身のほかには、いかなる哲人・聖王の名においてなりとも、何らの媒介者をも必要とせず」(96)、「すべての人間が信仰によって絶対的な神を中心として結合する愛の共同体が神の国である」(96-97)
「一般に社会組織と政治的支配としてではない」、「イエスの神の国は純粋に福音の「信仰」に根拠している」、「「信仰」によって、そうしたすべての二元の対立・分離は止揚される。否、それは信仰と不可分に結合する「希望」においてであり、一切の二元的対立は神の国完成の日に実現されるべき新たな世界の創造の待望において克服されるのである」(97)

3.「神の国」の普遍性、平等と自由。
・「何よりも国民的政治的な限界から自由にされて、普遍的人類的な共同体の方向へと展開される」、メシア待望が「純粋に個人的良心の問題と宗教的内面性にまで深められた結果」、「パウロ」「一つの神の国の市民であることが宣明された」(98)
・「ギリシャ末期のストアの世界国家と人道主義の思想と共通するもの」「ローマの世界的国家組織のもとに、よく自らの成長を成し遂げ得た」「キリスト教興起の政治的社会的条件を看過し得ないであろう」(98)
・「キリスト教において「平等」というのは、ただ絶対的な神の前に人はひとしく罪人であり、またそれ故ひとしく救済し得られるという意味において」、「罪の赦しによって新たにキリストの霊にあっての自由」
・「各人の魂の神へのそして神にあっての人類の統一、言いかえれば新たに絶対者において創造された個人人格と神を中心として結合された新たな普遍的共同体との理想である」(99)
・「「内的自由」と愛の「心情の共同体」、「政治的社会的価値からの超越」、「地上の政治的法律的結合からの自由」、「超文化的・調理性的」(100)

4.キリスト教の出現=「政治的国家生活からの根本的転向」(102)、その意義と課題。
・「国家またはその主権者をそれ自体キリスト教の意味における神の国または神と同義において神化する根拠と余地は存しない」
、パウロとペテロと言葉が「後世の「君権神授説」の理論的構成に与えたものと解するがごときは、いちじるしく不当」(101)、「彼らの純粋に宗教的愛の心情から出る受動的態度」、「国家それ自体のキリスト教的意義の神的価値を立て、それに対する絶対信仰を説く神政政治の原理を立てたわけではない」(102)。
・「この地上の生存に新生命を導入したこと」(102)、「新たな社会共同の理念」(103)
「消極的な遁世主義ではなくして、歓ばしい生の肯定と活動とがそこから開始されなければならない」、「政治社会の否定ではなくして、いまや宗教との関係において国家は新たな意義と課題をもって建てられなければならない」(103)
・「それがいかにして可能であるか。この「神の国」と「地の国」とはいかに関係づけられるべきであるか」、「中世キリスト教と宗教改革による近世キリスト教を通ずる共通の問題」「現代一般哲学と政治哲学との根本問題」(103)
・「極めて類型的な思惟方法」(104)

 以下、コメント。
・方法論としての「類型論」という点がはっきりと意識されている。ヨーロッパにおけるキリスト教とギリシャ思想、あるいはアガペーとエロス。これらは、類型論的である。
・南原のキリスト教理解(特に新約聖書)は、この時代の学的水準における標準的なものである(最先端ではない)。限界はもちろんある。それは、パウロのロマ書13章の解説にも現れているが、あまりに宗教改革的近代的な理解である。
・南原のギリシャ的神政政治批判を、当時の日本にあてはめるならば、どうなるだろうか。きわめて、痛烈で明確な国家批判が提示されている。それを南原が意識していなかったとは考えられない。論理的には、個と普遍の結合が種の基盤になるというものであり、田辺批判はこの論からなされることになる。
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