「神の言葉」考

 「神の言葉」はキリスト教思想にとって決定的な事柄であることは言うまでもないだろう。わたくしは、キリスト教学の概論講義で、宗教的象徴を論じる文脈で、キリスト教を「言葉の宗教」として説明することにしているが、そのポイントの一つは「神の言葉」が、三位一体の第二位格から、キリストとしてのイエス、イエスについての証言としての聖書、そして説教まで、これらすべてを貫いており、もし、「神の言葉」を欠くときには、キリスト教はまったく存在し得ないということである。

 しかし、神の言葉は、しばしば実体論的に理解されることによって、きわめて理解困難ものとなってきた。その典型としては、通常理解される意味における逐語霊感説を挙げることができるかもしれない。これに対しては、霊感説を逐語的静的実体的な理解から動的出来事的な理解に移ることによって、対処できる(上田光正 『聖書論』 日本基督教団出版局、1992年)。

 こうした「神の言葉」理解は、おそらくブルトマンに模範的な仕方で見出すことができる。つまり、信仰を世界観から分離し(非神話論化)、そこに神の語りかけ(Anrede)に対する決断として信仰を理解するという議論である。これは、ブルトマンの弟子によって、言葉の出来事として展開されることになる。(今年度前期の水曜日2限目の方の特殊講義では、ブルトマンと解釈学的神学が扱われる。)

 では、こうした事態は、具体的にどのように経験できるだろうか。ここから、わたくし自身の経験となるが、日曜礼拝において、聖書が朗読され、説教を聴く際に、聖書の言葉は、自分の外から到来する(聖書箇所を選ぶのは、わたくしではない)。この時点では、まだ神の言葉は生起していない。これが、神の言葉になるのは、説教者の説教に即して、あるいはそれとは無関係に、聖書の言葉が、意識に到来するときである。ある言葉が、いわばひらめきというような仕方で、意識の焦点へと浮かび上がってくる。それは、決断という質を必ずしも伴うわけではないが、貴重なインスピレーションをもたらすことになる。ここで大切なのは、外部から偶然に言葉が出来事として到来することであり、書斎における聖書研究とは別の経験である。

 最近のインスピレーションの成果は、詩編104.24-30における「神の霊→命」、使徒言行録2.1の「突如」の外部性・他性などである。これらは、忘れてはならないので、こうしてメモすることになる。
 自分の外部から偶然的な言葉の到来の場を確保することは、「研究」とはあまりにも異質ではあるが、しかし、「研究」にとっても欠くことができない意味がある。説教者がこれをどう思うかはおそらく別の問題である。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR