南原繁演習より11a

今回は、南原繁 『国家と宗教』、第2章「キリスト教の「神の国」とプラトンの理想国家」の最終節「四 問題の批判的解決への途」の後半(128-127頁)です(7月11日の演習)。前期の南原繁演習は、第2章が終わったところで、締めくくりです。なお、分量がやや多めになったので、2回に分けて、掲載します。

 「四」節の前半は、南原にとって現代(1920年代から30年代)が、「宗教復興」(=宗教への反動に対する反動)」と仕方で描かれ、「カトリックへの復帰」と「ヘーゲル哲学の再興」が論じられた。
 後半では、イエスと原始キリスト教における「神の国」の意義が再度論じられた上で、第2章のまとめと次章への展望が示される。

1.原始キリスト教の意義、その超越性。
 まず、第二節の議論が再度、取り上げられる。「原始キリスト教の意義がふたたび顧みられなければならない」。「キリスト教の本質」「その生命と原型」「キリスト教出現の世界歴史的意義」(127)
 プラトン主義の宗教的・形而上学的要求に対して、「キリスト教の神の国の特質は、宗教を政治的国家的意識から解放して、純粋に人間の精神的内面性にまで深めたことにあった」、「何よりも人間個人の良心の問題とした」、「おのおのが何らの媒介者をも経ることなく、直接、神の前において負うべき責任が基礎」(128)

 これは、宗教改革の視点から見た、初期キリスト教と解すできであろう。

 政治と宗教との分離、信仰の自由が尊重。「近世宗教改革の成果」「新カルヴァン主義発展の結果」「神政政治思想とは反対に、宗教と国家の分離」、「消極的な関係こそは、キリスト教がまたらした文化的意義として重要な真理である」(129)。

2.「神の国」、超越から内在へ。「同時に」「であるが故にこそ、かえって」
 「しからば、宗教と政治とは永久の分離にとどまるか」(129)
 「キリスト教の「神の国」の概念は決して個人人格の自由の概念に尽きない」、「同時に」「「愛の共同体」として新に社会共同体の理念を提示した」、「神の国はどこまでも「国」である」
 「一方には絶対的な「個人主義」を、同時に他方に絶対的な「普遍主義」を要請したこと」、「キリスト教倫理の「両面性」」、「この二者は」「「神の国」の理念において」「一つに綜合」、「社会的原理としては、おのおの固有の原理として発展されるべく、互いに他によって要請され、制約されるべき二つの観点」(130)
 「キリスト教に超越性」は「この世の現実の営みとを否定するものではない」、「宗教は自ら固有の文化領域を形成するものではなく、自ら文化の価値を超出するものであるが故にこそ、かえってもろもろの文化領域の中に入り込み、これに新たな内容と生命を供し得るからである」、「宗教的体験がわれわれの道徳的・社会的の関係の体験に異なるだけに、このことはかえって道徳的努力に無限の課題を与え、社会的関係に新たな理想を与えうるのである」(131)。
 「キリスト教のこのような此岸的現実性、その地上生活の倫理化の意義」 cf.「浄土」
「純粋に彼岸的超越性を有しながら、自らの社会的変革の使命として作用した事実は、他と比較を絶する事実である」(131)
 「宗教はひとり個人の救済に終るものではなく、あまねく国民と国家、ついに全人類社会の救済でなけれなならぬ。」(132)
 イエスは「「神の国」の概念を純粋に霊的内面化した点において新たな意義を付与したが」、「同時に」、「決して終末論的「神の国」の概念を否定しなかった」、「現在すでに開始せられる内的な神の国」「将来顕現せられるべき神の国の秩序」、「互いに相反するものとしてではなく、かえって共存し得るということ」(132)
 「キリスト教の「神の国」の理念によって、古代的国家の理念が、個人の良心と自由を限界として、その意味を喪失」したが、「他方、国家はふたたび新たな理想的課題を担って現われるに至ったものと考えられる」、「国家は古代世界の識らない新しい使命を負うて登場した」(133)、「それ自ら社会共同生活の関係を正しいものたらしめる価値の問題」(134)、「道徳的人格と並んで、ともに直接「神に国」に連なる」(134)

 「同時に」「であるが故にこそ、かえって」の論理が、南原の理論ではポイントになる。

3.宗教的非合理性、価値並行論と宗教。
 神の国・宗教と文化:超越と内在
 文化内部:道徳と政治・国家
 これら二つの関係性を価値論として描いたのが、価値並行論。

 「神の国はあくまでも経験的実在を越えた問題」「その絶対的価値の妥当を考えるとき、その実在を確信せざるを得ない底の形而上学的確信に属する」(134)
 「神の国の実在性は宗教的信仰において生きる事実」、「われわれの理論理性においては、認識の限界を超える問題」(134)、「いわば思惟の「局限」の問題である」(135)
「人類の理性的行為にとって、無限の課題」、「神の国の実在性は、神の絶対的実在と同じく宗教的非合理性の問題に属し、われわれの直接的な信仰の「体験」において生き」、「宗教的「愛」においてこそ生きる生々の事実であるが、これを認識において把握しようとする場合、われわれの理性はその前に佇ちとどまって、自らの制限を軸為なければならない」、「もしかような非合理性が無視せられ、神の実在が理論的体系の中心となり、あるいは神の国の実在が組織的に存在化せられるときには、そこに形而上学的独断と政治的独裁が成立するであろう」(135)。

 南原のカント主義。このカント主義からのヘーゲル批判(リクール)。「体験」は波多野。

 「学」「宗教の非合理性に信仰の体験の無限の領域を与えつつ、あくまで非合理性を非合理性として、その必然性において内的連関のうちに立てること」、「そこに宗教と哲学との結合点があり、一般に文化の領域が開かれるのである」(136)。
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