思想と文脈

 思想を論じる場合、その基礎となるのはテキストである。しかし、テキストの意味はコンキリスト、つまり文脈によって多様に規定されることは周知の事柄であり、ここに思想解釈の難しさも面白さも存在するわけである。この点については、わたくしも、ラカプラの議論を参照しつつ、以前にやや立ち入って論じたことがあるので、次の文献を参照いただきたい。

芦名定道 『近代日本とキリスト教思想の可能性──二つの地平が交わるところにて』 三恵社、2016年、43-48頁など。

 たとえば、次の場合(マタイ福音書、新共同訳)を考えていただきたい。
10:26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 この聖書の箇所はどのように解し得るだろうか。この聖書の直前に置かれた「12弟子の派遣」をめぐる文脈において読めば、派遣される弟子に対する「人々を恐れてはならない」とのメッセージと解することができるだろう。あるいは、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」は、人間に対する神の配慮として、しかも、近代的なヒューマニズム(人道主義)の文脈で解釈することも十分に可能である。
 しかし、「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」だけを前後から切り離して、たとえば、現代の動物倫理の文脈におくとどうなるだろうか。こうして、人によっては、ここから聖書のメッセージの人間中心主義(人間は雀よりも価値があるから、人間のみが大切である、ほかの動物はどうでもよい存在である、などなど)を読み取るかもしれない。

 というわけで、文脈はきわめて重要であり、文脈から切り離して思想を論じる読解がしばしば欺瞞的なものとなることも理解できるだろう。この種の読みは、近代以降、現代も繰り返されたものであり、創世記1章の「支配」なども典型的事例である(特に、リン・ホワイト以降の詳細な研究の蓄積を無視してなされる議論)。
 ヒューマニズムは、人文主義から、人道主義、人間中心主義までを包括しうるだけに、文脈は、特に重要である。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR