代議制の彼方?

 近代(西欧的)の政治哲学を規定する要素はさまざまであるが、「代議制」「政党政治」は、その重要な柱の一つと言えるものだろう。
 この柱が、揺らいでいる、しかも、世界の各地で。これが、いわゆる「危機」として、あるいは「チャンス」として解されている。キリスト教もこの近代の政治システムと基本的には強調しつつ存在してきた。とすれば、この「危機」はキリスト教にとって、何を意味するのだろうか。19世紀から20世紀にかけて、キリスト教には、社会主義、しかもアナーキズムとの連帯の試みが存在した。それは、再度、甦るだろうか。
 こうした動向を考える上で、次の文献はどこに位置するだろうか。

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート
『叛逆──マルチチュードの民主主義宣言』
NHKブックス、2013年。

序 闘争の始まり──バトンを引き継げ!

第一章 危機が生み出した主体形象
   借金を負わされた者/メディアに繋ぎとめられた者/セキュリティに縛りつけられた者/代表された者
第二章 危機への叛逆
   借金をみっくり返せ/真理を作り出せ/逃走し、自由になれ/自らを構成せよ
第三章 〈共〉を構成する
   諸原理の宣言/構成的闘争とは何か/〈共〉の構成のための実例/新たな三権分立のためのアジェンダ

次なる闘争へ──共民の出来事

謝辞
原註
解説 これはマニフェストではない──宣言から構成へ(水嶋一憲)

 近代の初頭、あるいは最近にいたるまで、直接民主主義は「夢」であった。しかし、状況は大きく変わった。ITの普及であり、これ自体が資本がもたらしたものであったことを考えれば、資本はその基盤を脅かす状況を自ら生み出しともいえる。もちろん、直ちに、ITを管理下におく動向も激しさを増したわけであるが。
 マニュフェストから運動へという順序を逆転させる試みが、これと連動している。つまり、運動が自らを水平的あるいは下から構成するというメカニズムの発動である。本書は、2011年以降がまさにこうした動きとして理解できるという認識に基づいている。
 では、近代は何が問題だったのか。民主主義と自由主義、人権、これらは、否定されるのか。おそらく、これからにまといついてきた、あるいはそれらを利用してきた欺瞞を剥ぎ取り、これらとこれまでになかった仕方で端的に徹底的に提示するという主張と解し得るだろう。この欺瞞は、西欧の自由民主主義が、植民地主義と連動した、いわば「覇権主義的な」自由民主主義であったことに示されており(代議制は支配の正当化の仕組みだった、となるか)、キリスト教は、この中心に関与してきたのである。ここに、代議制を超えてという議論が、キリスト教とも無縁でない理由がある。
 では、キリスト教はどこに行くのか、一つの答えは、イエスの宗教運動(たとえば、クロッサン)に、あるいは「レーニン主義者としてのパウロ」(ジジェク)に、ということだろうか。
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