「公」をめぐって1

 1980年代頃から、近代的な「公と私」二分法に対して、公共性の問い直しという議論が開始され、さまざまな提案がなされた。たとえば、「公-公共-私」の三分法という議論などは記憶に新しい(?)。アーレントからハーバーマスなどに依拠した現代思想の議論から、キリスト教神学における「公共神学」の提唱まで、わたくしのもしばらくはこのラインの議論を追跡したことがあった。
 こうした議論ともかかわりながら、しかし、より現実の運動体に近いところで、議論はより深く展開しつつある。ポイントは、現代のマクロな状況を分析する枠組みとそこにおける「公共」の財・富の理解である。たとえば、本ブログでもたびたび取り上げてきている、ネグリとハートによる議論である。これまで、本ブログでは、彼らの共著として、『帝国』と『マルチチュード』と紹介してきたが、これらは、次の議論へと展開している。

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート
『コモンウェルス──〈帝国〉を超える革命論』
NHK Books、2012年(原著2009年)。

今回は、上巻のみ。
序 マルチチュードが君主になる

第一部 共和制(と貧者のマルチチュード)
1-1 所有財産の共和制
  政治における最近の黙示録的語調──神学との混同について/共和制的な所有権──「所有の不可侵」はどこから来たか/知ることに果敢であれ!
1-2 生産的な身体
  所有財産に対するマルクス主義的批判の転換/身体の現象学と生政治/原理主義の消滅する身体
1-3 貧者のマルチチュード
  誰が「マルチチュード」と呼ばれたか?──貧者という政治的身体/貧者を憎むの誰か?/貧困と万能/物体論1──生政治的な出来事とは何か

第二部 近代性(と別の近代性の風景)
2-1 抵抗する反近代性
  近代性における権力と抵抗/なぜ奴隷所有が近代共和制で許されたのか?/生権力の植民地性
2-2 近代性のアンビバレンス
  マルクス主義と近代性/社会主義的発展の限界/弁証法を打破するキャリバン
2-3 別の近代性
  反近代性の袋小路にはまり込まないために/コチャバンバのマルチチュード/切断と構成/人間論1──生政治的理性

第三部 資本(と〈共〉的な富をめぐる闘い)
3-1 資本構成の変貌
  生政治的労働の技術的構成/生政治的搾取/生政治的な生産と管理の危機
3-2 階級闘争──危機から脱出へ
  労働と資本との開かれた社会的関係/〈共〉の亡霊たち/腐敗と脱出
3-3 マルチチュードの好機
  マルチチュードに何ができるか/マルチチュードの〈共〉的な本性/マルチチュードであることから、マルチチュードを作ることへ/特異性論1──愛にとり憑かれて

間奏曲──悪と闘う力

訳註
原註

 「マルクス主義は終わった」という言い方で、議論を片付けることができると考えるのはあまりにも幼稚である。ルターに限界があるからキリスト教が終わったとか、アメリカが腐敗しているから民主主義は終わりだとか、「思想」「理念」とはそんな水準に存在する事柄ではない。これは基本中の基本であり、マルクス主義は新しい展開を求めてすでに動きつつある(日本においても)。資本と帝国の新しい形態に対抗することがポイントであり、そこに帝国の再解釈とマルチチュードが位置し、生政治、身体論が組み込まれ、所有が問い直される。こうした議論は、思いのほか、キリスト教思想にも関連している。
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