なぜ政治哲学か

 ある学問分野が活況を呈する(しているかに見える)には、理由がある。学問のあり方は、(時代)状況を一方で超越しつつも(これが過剰であると社会的に認知されるとき、現在日本の人文学に対して投げかけられるような不要論が蔓延することになる)、他方ではそれに拘束されている。この事態は、学問と時代状況との「相関」と呼ぶことがきるだろう。思想は、思想独自の内的論理を有するとともに、社会史的研究の対象にもなるのである。これは、神学やキリスト教思想にも当てはまることであるが、同様のことは、政治哲学にも妥当する。

「政治哲学が流行している。テロや金融危機や経済格差について、さらには原子力災害について、黴の生えた机上の空論であったはずの哲学がまだなにかを語りうるということを、この提示哲学は実証している。どんな現実的な問題についても踏み込んで語ろうとする真摯な姿勢と能力によって、この哲学は人々に受け入れられている。」(市田良彦『革命論』平凡社新書、2012年、8頁)
「政治哲学の隆盛には冷戦の終結というきっかけがあった。第二次世界大戦後および半世紀持続した世界政治の基本枠組みが崩壊し、国家を越える政治には正義や倫理ぐらいしか適用可能な汎用性の高い原理がなくなてしまったから、これは舞台のうえに登場したのだった。倫理学としての政治哲学には最初から、世界のどこであっても同じように、「住みか」は「住みか」と見なすことが内発的要請として張りついていたのである。」(13)

 政治哲学の隆盛を具体的にどのように解釈するかは別にして、政治哲学の隆盛が時代と相関しているということは、適切な指摘であり、それは、「倫理学としての政治哲学」という理解に関わっているのは、確かであろう。
 しかし、問われるべきは、この「倫理学としての」である。

「政治哲学とはそんなものだったのか、倫理学とはこの政治哲学が問題にしているような問題だったのか」(8)がそもそも問題なのである。実際、現代の政治哲学を規定する問題意識には、「政治と道徳との関係」をめぐって両者を区別すべきであることが共有されている。

 本ブログが注目するのは、まさにこの点なのである。以前にも、一度紹介済みであったようにも思われるが、上に引用した文献の目次を再度、掲載しておきたい。

市田良彦
『革命論──マルチチュードの政治哲学序説』
平凡社新書、2012年。

序章 今日的視点──倫理的な政治

第一章 対象としての例外、主体化する例外──アガンベン、アルチュセール、ネグリ
第二章 消え去る政治、まれ(例外的)な政治──デリダ派、アルチュセール、バディウ
第三章 マルチチュードの生である政治──スピノザをねぐる抗争
第四章 見出された自由──フーコーと(不)可能な革命

あとがき
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