『福音と世界』から

『福音と世界』 2016. 9(新教出版社)が届きました。いつものように内容紹介を行います。8月もこの時期になると、猛暑もすぎ、耳を澄ませば、秋の気配も感じられます。9月になれば、学会シーズンで、とたんにあわただしくなります。

 まず、今回の特集は、「聖書と老い」です。
 「老い」は、キリスト教会にとって大きな問題あるだけなく(日本の教会の超高齢化)、現代世界が共有する現代の中心的課題です。東アジアでも、日本を先頭に、高齢化が急速に進展しつつあり、おそらく、このままでは20年後には、大変な状況になっていることが懼れられます。その意味で、「聖書と老い」は十分に掘りさげられるべきテーマであり、今回の特集はその点で意義あるものと言えるでしょう。しかし、この「老い」というテーマは、思いの外、難しい問題であり、この視点から聖書を読むということは、これまで十分になされてこなかったのではないでしょうか(断片的な取り上げはなされてきましたが)。特集に収められた論考は、どのような視点を提供してくれるのでしょうか。

・「老いと病──その祝福と課題、そして祈り」 (渡辺信夫)
・「神の賜物としての老い」 (櫻井重宣)
・「小さな歩幅で──老いの日の聖書」 (小塩トシ子)
・「東高齢社会を先導するキリスト教界──老年期牧師を中心に」 (川又俊則)
・「「老い」と「病」におけるスピリチュアリティ」 (原慶子)
 
 特集に続き、次の論考と書評が収録されています。
・「「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使20:35)はイエスの言葉か」 (荒井献)

  いかにも、聖書学らしい論考。

・「揺れる合同メソジスト教会──グローバル化と性の問題」 (小海光)

 グローバル化は大きな構造変動をもたらしつつある(そのプロセスは、人類史の底流として作用し続けてきた)。そこで問われるべき争点の一つは、たしかに「性」をめぐっている。

・「書評:浅野淳博ほか『新約聖書解釈の手引き』」 (小林昭博)

次に、連載(ほんの一部ですが)から。
・一色哲「南島キリスト教史入門」 23
 「一九三〇年代の沖縄における社会問題とキリスト教 服部団次郎と沖縄MTL」

 「一九世紀から伝道がはじまった南島のキリスト教は、一九二〇年代後半から一九三〇年代にかけて、ひとつの高い到達点に達していた」、皇民化教育が進み、経済危機が継続中、「そのなかで、沖縄の伝道者たちは、一九三五年、超教派の「沖縄基督教連盟」を組織した。それが母体となり、「沖縄救癩協会」(沖縄MTL)」が同年に設立された」(62)。
 「戦前、沖縄で伝統していた日本人伝道者のうちで、戦後、日本に戻ったあと、沖縄での伝道の日々について沈黙している者も多い。そんななか、服部団次郎は、戦後、沖縄伝道を振り返って、『沖縄キリスト教史話』(キリスト新聞社、一九六八年)と『沖縄から筑豊へ──その谷に塔を立てよ』(葦書房、一九七九年)の著作を残している」。
「服部は、毎月きまった日になると市内を徘徊し、物乞いをするハンセン病者たちを目の当たりにする。服部は、はじめ、それらの病者の姿に不快感をおぼえていたらしい。」
「服部は、沖縄島北部では、病者のための療養所を建設をめぐって、病者と地域住民の間に、以下のような紛争が起きていることも知った」。
「服部は、このまま那覇の大教会で会堂建築の負債問題を解決し、エリートたちの伝道に徹するべきか、それとも、自分が幻として見、現実に救いを求めている「群衆」のために伝道すべきか、葛藤するようになった。そうして、煩悶の末、彼は教会の役員会に辞任を申し出た」。
「服部は、MTLの活動のほか、同じく三井報恩会からの資金で、一九三九年四月、「私立名護幼稚園」を開園した。その幼稚園では、農村における農繁期保育や就学前の言語教育に力を入れた」。
「沖縄戦が近づいてくると、日本出身の牧師や沖縄人牧師たちは、ほとんど日本本土に送還されるか、南洋伝道に徴用され、沖縄を去って行った」、「こうして、一九三〇年代、周辺地域との交流により活性化した南島のキリスト教は、戦争の拡大により、その交流を断絶を余儀なくされ、次第に消滅に向かっていく」(65)。

・内田樹「レヴィナスの時間論」:「『時間と他者』と読む18」
今回の議論も、「被投性」「ある(イリヤ)」をめぐる内容ですが、内容は、「不眠」から、「自殺」へ進みます。

 「存在の瀰漫。それが私たちが今向き合っている論件である。レヴィナスは私たちに「存在」について根源的に思量することを求めているのだが、次にレヴィナスが採り上げるのは「自殺の不可能性」である。」(52)
 「自殺というのは自分の存在に対して主体が行使しうる最後の顕現である。・・・因習的には、そう信じられてきた。」
 「ハイデガー的現存在の根本的趨勢は「我々がそうあらねばならないものに自らなること」である。現存在は、おのれが本質的・根源的に何ものであり何にならねばならないかのかを、先駆的にすでに知っている。」(53)
 「現存在は成熟しつつ未熟である」、「現存在の本質は成熟をめざす未了であることのうちにある。だとすれば、死は存在の終わりではないというおとになる。この論の運びにハイデガーの天才性は存する」、「現存在は、成熟をめzす未了である限り、すでに死を繰り込んでおり、死を踏み越えている。未了こそが現存在の根本性格なのである」、「現存在は生まれ出たときにすでに死を繰り込んでいる。・・・現存在は死ぬことによって、おのれの未了という本質を生き続ける。死ぬことは現存在が引き受ける一つの存在する仕方(ein Weise zu sein)なのである。」
「人が自殺を選ぶのは、死ぬこともまた「一つの存在する仕方」だと死ンしているからである。その意味では、自殺者たちはある種の「ハイデガー主義者」なのである。彼らは「自分がそうあらねばならないもの」と隔たることあまりに遠く、その懸隔を縮めるだけの余力が自分にはもうないと判断したときに、その「未了」を際立たせるためにこそ自殺するのである」。
 「「死は一つの可能性なのである」というハイデガーの堂々たる言明を、レヴィナスは肯定的な文脈においてではなく、むしろ「死ぬことができない現存在の不能」として否定的に捉え返した。」(55)
 「自殺によって、人は存在から逃れるのではない。自殺によって、すべてを存在に譲り渡し、すみずみまで存在で充たされた、存在の瀰漫という病的様態のうちに沈淪するだけなのである。」
「「存在は病である」」「という決定的な一言」(55)

 存在は肯定的あるいは否定的な含意がある。そうなのか。それはどこで決せされる議論なのか。
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