南原繁『国家と宗教』5b

 南原繁『国家と宗教──ヨーロッパ精神史の研究』の補論「カトリシズムとプロテスタンティズム」の「五」の2回目。ルターの宗教改革の核心点を、後のカント哲学に至るものとして取り出し、そこに、個人主義と共同体主義の二者択一に還元できない議論を確認する。その上で、ルターの国家論を自然法概念の刷新として、教会との関わりでその意義が述べられるが、ルター自身において、それはいわば徹底されずにとどまり、それが領邦教会の成立となったことが指摘される。
 南原のまとまった宗教改革論が展開されている。具体的には、以下の抜き書きの通り。

「ルッター」「の信仰において新たなものは、神とわれわれ人間」(367)「との間の直接的な結合である」(368)
「司祭制や法王の権威の媒介を必要としない」、「ただ聖書の「言葉」を通して、各個が直接にキリストによって新たに更正せられたる人格の結合関係を中心とする」、「特定の司祭の掌る礼典を要件とせず」「人間の「良心」「心情」の問題として」、「かような信仰が最高の道徳的要求であると同時に、それ自体神の恩寵である」
「各個が神の前に自らの責任を負うべきものとして立ち、神の救いの恩寵は直接に各個人の体験すべく、それによって自己固有の人格個性の意識が根底をなす」(368)
「「個性」の概念、人格の「自律」の根拠はここにある」、「概念の厳密な哲学的構成は後年カントをまって初めて可能になったが、精神内容的にはすでにルッターによって見いだされたと言って誤りない」、「真に中世的世界観を克服したのは、文芸復興ではなくして、この宗教改革であったことがわかる」(368)
「ただ自己の承認する永遠の真理に従うほか、いかなる他律的権威にも屈しない個人の魂が核心であり、そしてそれは、文芸復興による古典的教養の結果ではなくして、聖書的福音の真理に対する信仰と道徳的な意志の力の発見であったのである」(369)
「しからば、ルッターの思想はしばしば人の誤解するように、個人主義にとどまったか。「「信仰から喜びと神への愛が流れ出る。そうして、愛から自由にして悦ばしい生活──隣人への奉仕──が流れ出る」と」、「信仰の果実としての愛と善の行為」「世界と同胞にまでの積極的な世界関係」、「キリスト者の自由」(369)
「神の意志に基づく「予定」」「と、それによって選ばれた者の行為と活動」(381)
「彼の倫理」「個人主義倫理のように「自己聖化」または「自己完成」のためではなく、神の愛が隣人のあいだで行われ、神の意志が世界において実現されることを目的としている」、「「隣人」とは」「キリストにある信仰の兄弟のみでなく、現実に隣する者」「ともに社会に行き、互いに他を必要とする「同胞」の意味」、「世間に留まり」「この世の現実の生と職業との闘いを通して、神と隣人に奉仕すること」「信仰から行為の義務が生じ、個人的心情の道徳から社会共同体の倫理的規範の導出が可能になる」、「現実の職業が」「「使命」または「天職」」(370)
「かような場として、家族、社会、この世の職業、なかんずく国家的共同体と政治的」(370)「活動の生の領域が挙げられねばならない」(371)
「ルッターにあっても国家は」「その意義が承認されている」「自然法的理性の所産」「ここにルッターによる自然法の新しい解釈の因素が存在する。それは、もはや中世のように神的永久法の前段階としてでなく、人間に内在的な理性的規範として考えられてある」、「実証的な現実秩序をそれとして是認する保守的自然法論の傾向が見える」
「その自然法思想は人間理性の裡に神の啓示を見ようとするものであり、自然的理性秩序とキリスト教精神との内的綜合が前提せられてある」(371)
「国家の権威は、また近世史自然法思想の主張するごとき人民の個人的意志に依存することなく、結局、神から賦与せられた権威として」、「中世的自然法と相違するはもちろん、近世的とも異なり、結局、自然法思想そのものは超克せられてあると解しなければならない。ここからヘーゲルの理性国家あるいは客観的精神としての国家観念へは、いま一歩と言うことができるであろう」(372)
「ルッターにおいて「見えざる教会」が唯一の真の共同体として把握さててあるが、それにもかかわらず、彼には同時に、「見える教会」の観念が存した」、「人間の救いの確実性は」「教会において説かれる神の言葉による媒介に求められねばならない」、「一に聖書が中心であって、いまや神の言葉が教会の客観的支柱をなし、「言葉」においての神的作用を通しての啓示に基づく新たら宗教的人格交互の関係の霊的共同体が教会である」、「「信者はみな霊的祭司であり」、「各キリスト者は平等であり」、「おのおのの人間と神との間には何ら制度的仲保者を容れる余地がない」
「教会概念の深化または一層の内面化」(373)
「ルッターは教会をあくまで純粋福音の自由の上に置き、国家を自然法的ないし理性法的道徳法則の基礎の上に置いたのであった。そうして二者相まって同じく、不可視の教会でアル神の国の理念に連なっている」(374)
「しかし、以上のごとき教会の概念はルッターにあっては徹底されないで」、「ふたたびそれ自ら一個の教理的かつ法的教会制度が立てられるに至った」、「ルネッサンスに新しく興った神学者と国君とが、教義の保護と福音の宣布に関する補助監督の指導的地位を占めるに至り、「国教会」(Landeskirche)の観念を生じた」、「一旦分離せられた教会と国家とがふたたび結合せられ、中世とは異なる意味と方法によって、宗教的統一社会の理念が作り上げられた」(374)
「位階的次序においてではなく、教会と国家との妥協、相互の「自由の協約」に基づくものであった」
「中世の「教会国家主義」に対して、新しく「国家教会主義」の典型が成立した」(375)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR