記憶について

 今回は、わたくしの研究メモとして「記憶」に関する断想を掲載します。

1.7月15日の第二演習とその後の研究発表のこともあってか、次のようなことが心の中に浮かんできた。
<連鎖する記憶:わたしの記憶、あなた記憶、神の記憶>
 大切な聖書を処分しなければならなくなって、聖書の「葬儀」を行うといった状況を設定する。
 たとえその聖書自体がそこになくても、「葬儀」を行うことができる(戦争や災害で遺体がない場合にも葬儀を行うのと同様に)。
 葬儀は喪のプロセスの起点となる。それは記憶すること、記憶することによってそれは常に心の中に留まり続ける(死はわかれではない、わかれではあるが)。ある人が大切にしている聖書を受け継ぐとは、その人の思いも受け継ぐこと。
 この場合に、Aという人を心に記憶することは、Aが記憶していたBをも記憶することになるか? いわば意識とは別の仕方で(ホワイトヘッド的にはそれは可能か)。もし可能とすれば、その記憶は連鎖を経てキリストに遡及する(聖書の場合であるから)、キリストが心に留まるということにもなる。これは、逆もなりたつ。わたしをだれかが記憶するということがあれば、わたしはその記憶の多重的な連鎖のなかに留まり続け、それは神の記憶にまで到達する。もちろん、神が直接、わたしを記憶することも可能ではあるが。
 聖餐式とは、こうした記憶をリアルに活性化することではないか。カルヴァンの議論(象徴的操作主義)とは、このように解釈できるように思われる。記念ではあるが、きわめてリアルな、食べ物を食べるのと同じ程度にリアルな経験。しかし、実体変化ではない。

2.その後の展開。これは8月末ごろの思考。
<神の記憶>
 「神の忘却=永遠の滅び」とした場合、ある特定の人物の忘却とはいかになされることになるだろうか。神であっても、ある特定の人のみの忘却は可能か。その人は、かならず、ほかの人々とさまざまな相互作用を行っており、その作用の網の目から、その人のみをいわば切断するというのは、きわめて考え難いように思われる(人格の個別性について考えよ!)。
 とすれば、論理的には、救済があり得るならば、それは普遍救済を帰結せざるを得ないとはならないか。

<記録と倫理>
 忘却される権利を認めるとすれば、研究対象となった人物が破棄することを意図し、たまたま偶然の要因などで残ってしまった、日記や書簡を、研究資料として、あるいは一般に出版するなどということは、倫理的に認めうるのか。これまでは、倫理は、現に存在している人間存在をもっぱらその対象としており、過ぎ去った(その意味で客体となった)「人物」や将来の世代、また動物などは、倫理的配慮の主な対象ではなかった。しかし、それが倫理的に問われている、とすれば、研究対象となるある人物が消去を願った資料は、どのような扱いが倫理的に適当なのだろうか。

 断想は続く・・・
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