『福音と世界』 から

『福音と世界』 2016. 10(新教出版社)が先週届きました(学会の学術大会や研究会で、紹介は遅れました)。今回からは、執筆者ということで、早めに出版社から直接届きましたが、定期購読分はまだ届いていません。本日午後は、非常勤として授業担当している分の後期が始まります。そろそろ、授業を中心に一週間が回り始めます。

 まず、今回の特集ですが、テーマは、「聖書と贖罪」です。
 キリスト教にとって、贖罪(罪の贖い、罪を贖う)は思想的にも中心テーマであり、聖書から思想を展開する仕方で、これまで繰り返し問題化しました。しかし、キリスト教的な贖罪論(たとえば、宗教改革的な)を聖書にどの程度結びつけて解釈できるかは、あるいはそもそもパウロの贖罪論の内実は、一見考えるほど、単純な問題ではないはずです。現代世界において、多様な宗教的伝統が隣接混在する中で、「キリスト教的」思想・実践が、どのような意味と妥当性を発揮できるかは、大きな問いであり、贖罪論はその際に避けて通れない問題である。
 収録は下記の論考。

・「旧約聖書の贖罪思想」 (小友聡)
・「パウロの「贖罪論」をめぐる欧米新約学会の動向」 (山口希生)
・「ルターの贖罪論」 (鈴木浩)
・「女性神学者たちが信じる贖罪」 (ゾンターク・ミラ)
・「贖罪論の修復的転回」 (河野克也)

 贖罪論は、聖書学的な議論を踏まえつつも、愛と正義という古典的な問いを掘りさげるところから議論を再開するのが有益ではないか。
 
 特集に先だって、「津久井やまゆり園の事件」に寄せたいくつかの文章が収録されている。
・「生きるに値せぬ命があるのか 津久井やまゆり園の事件について考える」
 河島幸夫、關めぐみ、島しづ子、深谷美枝、水野英尚

 現代日本の日常性・日常感覚は、こうしたショッキングな事件もあっという間に忘却してします。しかし、思想は、忘却に抗するところから始まる。事件自体が起こって伊しまったあとの思索ではあるが。


次に、連載(ほんの一部ですが)から。
 冒頭で、わたくしが執筆者であるため、出版社から早めに本号が届いたと述べたが、実は、わたくしの連載がこの号から始まった。「現代神学の冒険──新しい海図を求めて」というタイトルの連載であり、一回目は、「冒険への招待」、つまり連載の自己紹介である。現代神学の動向を紹介しつつ、現代キリスト教の思想的課題を論じるといったところである。ポイントは、「現代」と「神学」についてのそれぞれを問題設定を行うかである。森田雄三郎、栗林輝夫による議論を参照して説明は行われている。
 構想は大きな構えになっているが、実際にどのような内容で連載が継続できるかは、やりながら考えるということにならざるを得ない。詳細は、実際に第一回を読んでいただき、面白そうならば、かなりの回数の連載になる見通しなので、引き続きお付き合いいただきたい。

・一色哲「南島キリスト教史入門」 24
 「南島の軍事化と教会(一) 奄美大島における宗教構造とカトリック迫害の歴史的意味」

 「一九三〇年代後半、日本の辺境である南島の、さらに底辺に呻吟する人びとに対して、南島のキリスト教はそれらの人びとの救済のために今日は教派・出身地を越えて連帯した。そのような救済活動を排除しようとする動きはあったが、地域住民たちとの関係も深まりつつあった。」(64)
 「この可能性を断ったのは、一九三〇年代から四〇年代にかけての南島全体にわたる軍事化であった。」
 「(一)法体系と政治・社会体制の根底的な変更 (二)軍事基地の建設と軍隊の進駐 (三)翼賛的団体の出現と相互監視システムの構築 (四)言論統制と思想・信条・信教の自由の侵害 (五)排他的言説(「ヘイト・スピーチ」)の流布と「敵性」外国人の追放」(64)
 「大島カトリック教会に対する迫害、南島最大であることが知られている。」(65)
 「大島では岡程良ら島内の指導的知識人により、カトリック教会が招聘された。・・・大島高女は、まさに、象徴的であった。」
 「ところが、一九三三年前後から、急速に、カトリックへの攻撃が本格化しはじめる。」(66)
 「一九四〇年代、日米開戦と戦局の悪化にともなって、南島の軍事化と教会に対する試練は、教会という存在の崩壊・解体・消滅という新しい局面を迎える。」(67)

・内田樹「レヴィナスの時間論」:「『時間と他者』と読む19」
今回は、ここ数回の議論のまとめといった内容。

 「存在論的語法」で語る限り、「存在の圏域、「ハイデガー的風土」」、「そこからの脱出がいかに困難なものか」(48)
 「懶惰と疲労と苦役お現象学」「実存の緊張が弱まることがある」、「覚醒と明察に支配が衰えるときがある。そのとき存在論の全能にもわずかな「隙」が生じる。レヴィナスはそこに存在論攻略の例外的な機会を見出すのである」、「不眠も、吐き気も、自殺の誘惑でさえも」(49)。
 「おそらく人間が人間であり得るのは、おの二つの世界を(同じ人々が登場しながら、世界の論理構造も語る言葉の文法構造も違う世界を)私たちが日常的に往復しているからである。この切り替えが許されているからこそ人間は生きられる」(51)。
 「死とはおそらくこの往復の能力を失うことである」。
 「眠りと覚醒を行き来できることに、つねに一方から他方への「脱出」の経路が保証されていること、それが人間が人間として生きられる基本的な条件を形成している。これは哲学的考想というよりも経験的実感である。けれども、この経験的実感に基づいて存在論を攻略しようという考想を抱いた哲学者はレヴィナス以前にはいなかった。」(51)

 眠りだけ、覚醒だけ、ではなく、眠りと覚醒の往復が大切、なるほど。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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