『福音と世界』 から

『福音と世界』 2016. 12(新教出版社)が届きました。わたくしの連載も、3回目で、一つの区切りですが、そのほかにも、時間が区切られる仕事が複数存在し、しばらくは、多忙なスケジュールをぬって仕事を行うことになります。特に、来週はハードな日程です。

 いつものように、特集から。今回のテーマは、「降誕物語をどう読むか──聖書解釈の視座と方法」です。
 「降誕物語をどう読むか」というテーマは、12月の季節にふさわしいものですが、副題「聖書解釈の視座と方法」からもわかるように、内容は聖書学的な方法論(比較的新しい)を降誕物語に適用して説明するといった趣旨でしょうか。
 聖書学については、この専門研究のいわば外部に立つ者として、以前から思うところがさまざまあります(いずれ、わたくしの連載で取り上げますが)。現在の聖書学の方法論(物語批評にせよ、社会科学批評にせよ)が、一般の文学批判の方法論の進展に比べ、やや遅れていること(一般の文学批評では、50年前の議論を聞いている気がするというのは言い過ぎか)、伝統的な神学的な聖書読解との関係や聖書学に続くあるいは重なる時代を扱う古代史研究との関連など、隣接する学問分野との関連性がやや見えにくいこと、などなど。
 特にクリスマス物語については、それがキリスト教の祝祭として確立するのが4世紀というのが定説と思われるが(クルマンによれば)、それに先立つ1世紀の段階で成立したクリスマス物語は、初期キリスト教においてどのような機能と意義を有していたのか、専門家にお聞きしたいことは尽きない。

 今回収録されたのは下記の論考。

・「新約聖書解釈への招き──特集解題」 (廣石望)
・「低き幼子イエスへの招き──歴史的・批判的研究による解釈」 (木原柱二)
・「すべての人が招かれる教会の予告編──社会科学批評による解釈」 (大宮有博)
・「飼い葉桶の中の子──物語批評による解釈」 (東よしみ)
・「マリアのクリスマスの回復──文化研究批評(ジェンダー・セクシュアリティ研究)による解釈」 (小林昭博)
・「うたい続けよう、天使の歌を──説教・教会の礼拝で読み、語る」 (平野克己)

 聖書学と神学、さらに教会とそれらを取り囲む世俗社会。こうした構図の中で、聖書テキストを学問的に読むということを、聖書学者を含め、関係者がよく考えるべきだろう。
 
 特集のほかに次の文章が掲載。(今回、特集の後に、月本昭男さんの連載「詩篇の思想と信仰」140、「ヤハウェをたたえよ」が配置されたのは、特集最後の平野さんの論考との関係だろうか?・・・)
・「アジアの教会と連帯しよう──第三回宣教会議(2017年)開催に向けて」 (藤原佐和子)

 今週は、18日から19日かけて、京都の関西セミナーハウスで、日中韓神学フォーラムが開催される。このフォーラムも10年を経過し、曲がり角にさしかかりつつあるように思われる。

次に、連載(ほんの一部ですが)から。
 わたくしが担当の連載「現代神学の冒険──新しい海図を求めて」は、三回目で「ポスト近代とは何か」として現代神学の後半を概観しました。これはまさにわたしたちの同時代そのものであり、もっとも扱いにくいテーマと言わねばなりません。わたくしの概観はどれほどの妥当性をもつか、特に神学的状況に対して適切な議論になっているか、自問自答が続きます。この現時点での中間報告というべきものです。

・今月号で最終回を迎えてもの。
 本ブログでは、ほとんど触れることができませんでしたが、今月号で、二つの連載が最終回となりました。
 ・髙橋優子「現代日本の福音」:24(最終回)は、加藤和恵『青の祓魔師(エクソシスト)』。
 ・秋葉睦子「ドイツ教会通信11(最終回):「フリートヴァルトに眠る」
 ご苦労様でした。
 
最後に、いつものように次の連載を取り上げます。
・内田樹「レヴィナスの時間論」:「『時間と他者』を読む21」
 テーマは、引き続き、実存者が「実存すること」の主人である、という命題です。レヴィナスはこの命題をハイデガーと対決しつつ展開しているわけですが、ポイントは、それをどのように説明するか、言語化するかということになります。

 今回は、「ハイデガー的風土」が取り上げられますが、それは、「死さえ現存在の「存在する一つのしかた」である」こと、「死のことによっても存在することを止められない」「現存在は死んでもなお未完了」という問題です。
 この問題は、エレア派の議論、「アキレスと亀のパラドクス」を参照することで、さらに追求され、こうしたエレア的風土、ハイデガー的風土に対して、論者は、「レヴィナスはこの出口のない状況に対して一つの「要請」を行っているのではないか」「「存在するのとは別の仕方」というものを認めてくれないか」」と要請しているとの解釈を提示する。
 「いったん存在論を「かっこに入れて」はくれまいか」」という要請あるいは懇願。
 なお、懇願はレヴィナスの鍵語であるとこと。

 とすれば、「レヴィナスは決してハイデガー存在論を「高みから」観想して批判しているわけではない」「懇願」「要請」しているということになる。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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