文化の神学4

 これまで、「文化の神学」というテーマのもとで、映画についての宗教あるいはキリスト教からの研究・分析を紹介してきた。実際、映画は現代思想においてもしばしば分析の素材として用いられることがある。「文化の神学」で映画を扱う場合も、こうした現代思想の議論はさまざまに参照すべきものと思われる。というのも、現代文化の議論は、それをどのような方法で分析するかによって、浅くも深くもなるからである。
 わたくしが、比較的気に入っているのは、現代思想で映画分析といえば、取り上げられるべき「彼」、スラヴォイ・ジジェクである。彼の映画について、あるいは映画を用いた分析は、決してまとまった映画論を展開しその後で具体的な映画を論じるというものではなく、断片的な、印象的な場面を切り取った分析と言えると思われるが、議論の背後には、ラカン的精神分析の手法が存在し、その鋭い分析は、示唆的である。

 こうした点について、まず読むべきは次の文献であろう。

スラヴォイ・ジジェク
『ラカンはこう読め!』
紀伊國屋書店、2008年。

死の前に生はあるか──日本語への序文
はじめに

1 空疎な身振りと遂行文  CIAの陰謀に立ち向かうラカン
2 相互受動な主体  マニ車を回すラカン
3 〈汝何を欲するか〉から幻想へ  『アイズ・ワイド・シャット』を観るラカン
4 〈現実界〉をめぐる厄介な問題  『エイリアン』を観るラカン
5 自我思想と超自我  『カサブランカ』を観るラカン
6 「神が死んだが、死んだことを知らない」  ポポークと遊ぶラカン
7 政治のひねくれた主体  モハンマド・ボウイェリを読むラカン

原註
訳註
年譜
読書ガイド
訳者あとがき
索引

たとえば、
「ラカンがラメラ(薄片)と呼ぶ謎の生物をじつに詩的に描写したこの文章」(109)
「ラカンがこの文章を書いた十年以上後に製作された映画、すなわちリドリー・スコット監督の『エイリアン』のショット一つひとつを解説している文章として読むことすらできる。この映画に出てくる怪物エイリアンはラカンのラメラにあまりにもとく似ているので、ラカンはこの映画ができる前にこの映画を観たのではないかとさえ思えてくる。この映画には、ラカンが述べていることが全部出てくる。・・・エイリアンは、純粋な生としてのリビドーであり、破壊することはできず、不死である。」(112)
といった感じである。

 こうした読解は、ラカンと『エイリアン』との通常の因果関係としてではなく(実際に読んでいた、あるいはラカンをヒントにした)、「現代」を規定する精神状況というレベルで、それを読み取る分析者の視野の中で起こっているものであり、ティリッヒならば、ここで内実とか様式という議論を入れることになるだろう。もちろん、ティリッヒの内実概念は、かなり改訂する必要があるが。
 



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