『福音と世界』 から

『福音と世界』 2017. 1(新教出版社)が届きました。雑誌は一ヶ月早いとはいえ、もう2017年ということで、何か時間を急がされている感じもします。しかし、まだ12月末までには、やるべき仕事がかなり存在します。

 2017年はいよいよ宗教改革500周年。『福音と世界』も特集が、今月から「宗教改革」となるようです。初回は、「信徒と教職」ですが、宗教改革に即して言えば、万人祭司という問題となるでしょう。キリスト教の制度や組織は、初期キリスト教から古代教会の歴史的文脈で成立したものですが、問題は、この時期に成立した歴史的制度が、どの程度の普遍的妥当性を、つまり拘束力、あるいは権威を有するかということでしょう。この点で、キリスト教諸教会の見解が大きく分かれるわけです。これは、現代キリスト教の争点の一つと位置づけうるものです。

 今回収録されたのは下記の論考。

・「賜物と課題としての全信徒祭司性──宗教改革500周年目の節目に考える」 (江藤直純)
・「公会議以降のカトリック教会における信徒理解」 (有村浩一)
・「万人祭司とキリスト集会派」 (川向肇)
・「賜物が豊かに用いられる教会となるために──日本キリスト教改革派教会における女性教師・長老問題」 (袴田康裕)
・「信徒と教職の権威を考える──一信徒のつぶやき」 (李恩子)
・「ユダヤ教と万人祭司」 (山森みか)
・「新約聖書・初期キリスト教における「信徒」と「教職(制)」について」 (村山盛葦)

 信徒と教職についての問題は、社会学的分析も必要だろう。歴史の地平は、議論の基盤ですが、そこにとどまっていては、議論はアポリアを抜け出ることはできないように思います。
 
 特集に続き、次の書評が掲載。
・書評:二本カトリック司教協議会、『今こそ原発の廃止』編纂委員会、2016年10月・カトリック中央協議会
   『今こそ原発の廃止を 日本のカトリック教会の問いかけ』 
  カトリックの真剣な取り組みを示す労作 (評者:柳川朋毅)

 次に、連載(ほんの一部ですが)から。
 わたくしが担当の連載「現代神学の冒険──新しい海図を求めて」は、四回目ですが、これまでの連載の補足といった内容の「インターリュード(1)」としました。『福音と世界』のようなタイプの雑誌で取り上げるには、やや細かな議論になったようにも感じています。また、議論も紙幅の関係で、中途半端になり、執筆者の方でもやや不満が残りました。いずれ、別のところで、掘りさげた議論を行いたいと考えています。ともかくも、テーマは、キリスト教の歴史をいかに論じるかの方法・視点の問題ですので、関心のある方はお読み下さい。

・吉松純:アメリカの神学のいま3 「コンテクスチュアル神学1 黒人の神学」
 この連載は、わたくしの連載とも重なるところがあり、興味深く、拝見しています。黒人神学の背景・風景から内容へと行った、読みやすい記述です。

 冒頭の「よもやと思われた政治経験ゼロのD・トランプが大統領選に勝利」という評は、どのように分析すべきでしょうか。こうした予想とした者はそれがなぜはずれたのかを考える必要があると思います。自分は、どんな情報に基づいて、誰の分析に基づいて、さまざまな事柄を判断しているのか、という点をよく考えることでしょう。ここがわからないと、肝心なときに、予想がはずれることはまた起こります。
 
最後に、いつものように次の連載を取り上げます。
・内田樹「レヴィナスの時間論」「『時間と他者』を読む22」
 今回は、「話を戻そう」、その前に「迂回」するという出だしです。「時間が流れるためには他者がなければならない」という命題をもう少し実感的なイメージで捉えるという迂回です。

「時間は空間化できない」、「時間の流れを観照する主体において時間は流れない」。
「「私ならざるもの」が私のうちで語り始めるとき、わたしはもう孤独ではない」、「この同伴者」との「終わりなき対話」を通じて、「私にとって時間はゆっくりと流れ始める」。
「レヴィナスとブランショはともに「同伴者」という概念に強いこだわりを示していた」、ブランショの『終わりなき対話』。
「他者」「」これは、言葉が生成する」「思考がかたちをとる」
「一つのことを言うためには二人の語る主体が必要である。

ここまでは迂回。いよいよ、話は戻る。「レヴィナスは「位相転換を経由して、実存者は実存することと関係を取り結ぶ」と書いていた。
「それがどういう「関係」なのかがここでようやく開示された」。
「実存者は〈実存すること〉を「支配している」のだ」。
「支配する」ことについてのレヴィナスの説明。

「自己同一性とは自己からの離脱と回帰のことである」、「ヘーゲルの古典的な定義」
「ヘーゲルは「自己からの離脱と自己への回帰」という自己同一化の働きを、主体の創立、真理の顕現として称揚する。それに対してレヴィナスはそれこそが「おのれ自身に釘付けされている経験」として、主体の絶望的な孤独として描くのである。」

今回の内容は、わかりやすい。ポイントとコメントは次の通り。
・時間(いわゆる内的時間経験)は、意識の存在を前提とする。
・意識は、内的対話として成立する。これは、アーレンという、「一者の中の二者」であり、この内的対話は、外的他者との対話と相関・連関している。こうした議論の源泉の一つはアウグスティヌスであろう。
・ヘーゲルにおける疎外概念を検討する必要がある。これが弁証法的過程に称揚されるものへと止揚されるのは、言語・対話という視点がヘーゲルには希薄だからではないか。シュライアマハーと比較するとよくわかること。
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