アガンベン・メモ1

 ジョルジョ・アガンベンの『身体の使用』のメモを開始します。なんといっても、大著のため、いつおわるのか、そもそもおわるのかも未定です。

ジョルジョ・アガンベン
『身体の使用──脱構成的可能態の理論のために』
みすず書房、2016年(原著、2014年)。

まえおき

プロローグ
第一部 身体の使用
第二部 存在論の考古学
第三部 〈生の形式〉
エピローグ 脱構成的可能態の理論のために

訳註
訳者あとがき

文献目録
人名索引

まえおき
「その探究は、他のあらゆる詩作と思索の仕事もそうであるように、けっして終結することはありえないのであって、ただ放棄されうる(そしてひょっとして他の者たちによって継承されうる)にすぎないのである。」(1-2)

プロローグ
「内密の生、わたしたちの〈生の形式〉」「捕まえようとしても、わたしたちの掌中には退屈でなんお感動も呼ばない日常性しか残らない」(4)
「かれらの「存在」は、いってみれば、完全に《私的生活の内密さ》に平準化されてしまっていた。」(8)
「わたしたちの文化においては、生はけっして生として定義されることはなく、そのつご、ビオスとゾーエー、政治的な資質をさずけられた生と剥き出しの生、公的な生と私的な生、植物的な生と関係の生とに分節化され分裂させられており、分割された部分のそれぞれが他の部分との関係のなかでしか規定されえなくなっている。」(10)
「私的な生が内密な生としてわたしたちに随伴していることはなにをいみしているのだろうか」、「この分離とこの分離不可能性」(11)
「内密の生の不透明さ」(12)
「今日起きているように、政治および公的領域の日蝕が私的なものと剥き出しの生をしか存続させないときには、線上の唯一の主人でありつつけている内密の生が、私的な生であるかぎりで、公にされ、みずからのもはや笑い出すわけにはいかない・・・記録資料を伝達しようとこころみなければならないのであって」(12)
「公的なものと私的なもの、政治と個人的な生の記述、ゾーエーとビオスの分離を超えたところで、〈生の形式〉と身体の共通の使用の輪郭を描き出すこととができるようになったときにのみ、政治はその無言状態から抜け出すことができるようになるのであり、個人的な生の記述はその精神薄弱状態から抜け出すことができるようになるのである。」(13)

【テーマは生と身体、政治と日常性。1995年から開始された「ホモ・サケル」シリーズの締めくくり。読者としても、そろそろ全体を読み直し、そこから自分の思索を始める時である。】
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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