『福音と世界』 から

『福音と世界』 2017. 7(新教出版社)が届きました。 6月、梅雨に入ったと言われますが、ここしばらくは、むしろ気持ちのよい気候となっています。梅雨はこれからが本番でしょうか。『福音と世界』の7月号の紹介の時期は、ちょうど、8号に掲載する予定の原稿が完成する頃であり、今回は、原稿がやや早めにできたので、すでに校正に進んでいます。

 宗教改革500周年を迎える2017年。『福音と世界』では連続して「宗教改革」に関係する企画が特集されていますが、今回は、前回の「世界史の中で」というタイトルのさらにさきへ、「改革しつづけるアジアの教会」です。もちろん、アジアの教会によってのルターから始まる宗教改革の意義といったことではなく、近現代のアジアの諸教会の現実というテーマです。しかし、宗教改革について、「宗教改革は継続する」と言われることから考えれば、宗教改革は、アジアの教会の改革へと継承されているという解釈は可能でしょう。ともかくも、アジアということで、わたくしの現在の研究テーマにも関連する内容です。
 今回収録されたのは下記の論考。

・「近代日本人のアジア認識と戦後の教会の取り組み」 (山本俊正)
・「内戦と虐殺の歴史を経て──カンボジアの社会変化とキリスト教会」 (宇井志緒利)
・「内戦下のスリランカにおいて十字架を担う」 (志村真)
・「現代タイのキリスト教に学ぶ──「仕えること」をめぐって」 (藤原佐和子)
・「危機意識と行動──韓国教会の状況と改革の試み」 (ナグネ)
・「変貌する中国・香港・台湾の教会と相互関係」 (松谷曄介)

通常は、ここからが連載紹介ですが、今回は、特集の後に、特集を受けるかのように、次の論考が入っています。第1回とあるので、少なくとも数回の企画でしょうか。
第1回「日本・在日・韓国 女性神学フォーラム」報告
 「東北アジア平和に向けた女性の連帯──江汀平和村で」 (呉寿恵)

 次に、特集ですが、「アジア」との関連ということで、今回は、次の順番で紹介します。
・・高井ヘラー由紀「はじめての台湾キリスト教史(4)」:「大航海時代と近代の断絶性と連続性」
 「二〇〇年の空白期」「一七世紀の台湾におけるキリスト教布教事業は、カトリックがわずか一六年、オランダ改革派が三五年と、半世紀に満たない期間で収束することになった。」
 「一九世紀の後半」「台湾社会の様相は」「大きく異なっていた」。「漢族移民の急増」
 「平埔族」「二〇〇年にわたる漢族からの政治的・経済的・文化的圧迫の中で、オランダ人との交流の記憶を、漢族に対抗するための密かな砦として大切に保っていたようだ。」
 「確かに二〇〇年前のオランダ人宣教師による布教活動との連続性が、近代台湾におkうぇる最初期の布教経験のうちに見出されるのである。」

 次も、また「アジア」
・吉松純:アメリカの神学のいま9 「コンテクスチュア神学4 アジアの神学」
 話題は、小山晃佑から、チョン・ヒョンギョン、ポール・ニッターを経て、プロセス神学(キャサリン・ケラー)へと、仏教との関わりが辿られる。最後は、再度ニッターを経て、小山へ(ユニオン神学校ライン?)。

 これに対応するかのように進展する、アメリカにおける仏教研究の広がりも面白い。アメリカの宗教事情といっても、単純な区分けによってみるかぎり、断片的な印象にとどまるというべきかもしれない。

 続いて、わたくしが担当の連載。
 わたくしが担当の連載「現代神学の冒険──新しい海図を求めて」は、今回が10回目。必要とは言え、前置き的な準備に時間を要したため、「解放の神学」系へ踏み込むのは、今回から。ここから、現代神学のやや具体的な問題状況に入ることになる。とはいっても、今回は、解放の神学とは何かの説明であり、次回はその前史となる。12回目から、フェミニスト神学、黒人神学、民衆神学(アジアの神学)、アフリカの神学と、解放の神学の地域的・問題的な展開がたどられる(予定である)。
 
最後は、いつものように次の連載。
・内田樹「レヴィナスの時間論」:「『時間と他者』を読む28」
 「孤独と質料性」という第一回講義の最終部へ。「ここまでの息の詰まるような「酸欠状態」がもうすぐ終わる予感」

 「孤独を試練にかけること」、「孤独」をめぐる「因習的な意味」を解除すること。
 「主体の質料性」、「木材は木材であることに釘付けされている」「木材以外のものではありえない」というように。「自己同一性」とは「おのれ自身に鎖で縛りつけられていること」。
 「現在であること」、「主体であること」、「自由であること」は、「ある種の苦役のようなもの」「自分が自分であることをすでに重荷として引きずって歩くようなこと」
 「〈実存者〉は自己同一性という牢獄のうちに幽閉されている」。
 「レヴィナスは」「この繋縛性からの離脱という実践的課題を提示する。」
 「〈私〉が孤独であったのは、〈私〉が時間のうちに存在しなかったからである。〈私〉において時間が流れていなかったからである。」

 質料は個別化・個体性の原理であり、身体は牢獄である。しかし、ギリシャ的にはこれは「時間」の中でのこと。離脱は、死を介して完成する。ここで、レヴィナスは、別の議論を伝統的な哲学にぶつけている。おそらく、こんな感じ。
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