『福音と世界』 から

『福音と世界』 2017. 8(新教出版社)が届きました。 7月、今年の梅雨は、雨が降るとなると激しい雨になりますが、そうでないと、かなり暑い日となる傾向です。今日明日と、京都は35度を超えるという予報です。情緒あふれる(?)梅雨は何処に行ったのでしょうか。

 今回は8月号ということで(おそらく)、戦争・国家という問題に関わる特集が組まれている。「象徴天皇制・国家・キリスト教」である。天皇退位の問題が議論されたことからも、キリスト教においても再度議論すべきものと言えよう。近代日本のキリスト教思想にとって、天皇制は最大の問題として存在してきたからである。もちろん、議論をどう立てるかが問題であり、今回の特集に収録された島薗進の論考などは、注目すべき論点を提示しているように思われる。
 今回収録されたのは下記の論考。

・「「非人」とされたキリストと天皇──象徴から人間へ」 (上村静)
・「象徴天皇制下におけるキリスト教の役割」 (河西秀哉)
・「再び天皇代替わりの時に考える──教会は、キリスト者は、天皇制にどのように立ち向かってきたか?」 (中川信明)
・「「家族教会観」批判にむけての試論──天皇制・家族主義・教会」 (堀江有里)
・「存続した国家神道と教育勅語の廃止問題」 (島薗進)
・「日本基督教団における軍用機奉納運動」 (森田喜基)

特集の後に、次の記事が掲載されています。わたくしも、一度見学してみたいところです。
・「日本初のエキュメニカル教育運動の資料館──NCC教育部平和教育資料センターがオープン!」 (大嶋果織)

 次に、特集です。
・高井ヘラー由紀「はじめての台湾キリスト教史(5)」:「初期プロテスタント布教と教会ローマ字」
 「プロテスタント布教が開始した清朝末から日本統治期を経て国民党政権期に至るまでの長老教会における母語使用の原則は、確かに台湾におけるナショナル・アイデンティティの構築に大きく貢献してきた。そしてそのプロセスの中で重要な役割をに果たしたのが「教会ローマ字」なのである。」
「万人が共通に知識にアクセスできるという発想に基づく教会ローマ字表記の『教会報』の発行は、「教会ローマ字知識圏」とでもいうべき新しい知の空間を生み出した 」、「既存の儒教知識層との対立が顕在化する間もなく、台湾では一八九五年に日本による植民地統治が開始し、教会ローマ字を土台とする言語的知的空間は、日本統治によるそれとの衝突に直面することになっていくのである」

 教えられること、考えさせられることが多々ある。

・吉松純:アメリカの神学のいま10 「二つのキャンプ伝道」
 話題は、「大覚醒とキャンプ・ミーティングの発展」というアメリカ教会史の歴史的事例から、現在のアメリカ、そして日本へと展開します。

 日曜学校の夏季キャンプ・林間学校。懐かしい思い出。この間の半世紀の変化を考えさせられる。

 続いて、わたくしが担当の連載。
 わたくしが担当の連載「現代神学の冒険──新しい海図を求めて」は、今回が11回目。今回から、いよいよ、「解放の神学」系へ踏み込むことなりますが、まずは、一歩下がって前史から、宗教社会主義が今回(「宗教社会主義の遺産──解放の神学の前史」)のテーマです。問題は、「解放の神学」系の神学潮流が直面するマルクス主義をめぐる、社会分析・社会批判の方法をめぐる問題の基本形を確認することです。実際、マルクス主義自体が大きく展開しつつあって、単純な「マルクス主義とキリスト教」の対立図式はなり立たないということであり、それは宗教社会主義の教訓だったはずです。この連載で紹介できるあは分かりませんが、現在、Roland Boerの議論に取り組みつつあります。どこで議論することになるでしょう。
 
最後は、いつものように次の連載。
・内田樹「レヴィナスの時間論」:「『時間と他者』を読む29」
 「『時間と他者』は四つの章から成っている。私たちはそのうちの第一講までを読み終えた・全89頁のうち38頁までだから、ほぼ半分近くまで来たことになる。とりあえず挫折することなくここまでたどりついたことを、読者とともにことほぎたい。」
 「ここまでのレヴィナスの理路の頭痛がするほどの難渋さは、レヴィナスがそこで用いる哲学用語のほとんどについて、その因習的な語義を宙吊りにしたまま読み進むことを読者に要求しているという事情に由来する。」
 「第一講の最終部で私たちは重要な手がかりになる命題を二つに入れた。一つは「孤独とは時間の不在である」という命題。もう一つは「質料の繋縛を打ち砕くこと、それは時間のうちに存在することである」という命題である。」

 「では第二講に進もう。」
 「第二講冒頭のこの箇所は、死と孤独についてのハイデガーの所説を否定するために書かれている。」

ここで、ハイデガーの有名な死論の要点が解説される。ここは、有名なので省略。ポイントは、「レヴィナスは、ハイデガーのこの「死へとかかわる存在」と「日常性のうちに頽落している非本来的なひと」の対立を無効化することをめざす」ということ。

 「日常生活は頽落などではない。日常生活こそ私たちの「孤独の完成」なのだ。」

 以下では、レヴィナスのタルムード論から「日常生活」と哲学との関わりが論じられる。

 「生活をするもの、生身の身体をもつもの、生活から逃れることができず、逃れることを拒み、むしろ日常生活の混沌のうちに深く沈み込むことを選んだものこそが哲学の主体となるべきだ」、「「ハイデガー的風土との訣別」とはおそらくこの方向転換のことである」。 

 いよいと第二講へ。日常性・身体性の重視は、ギリシャ的思惟に対する聖書的思惟からの批判と読めるか。これは、キリスト教思想史の随所で起こっている。ハイデッガーを、その文脈に位置づけることは、いかなる意味を有するか。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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