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アガンベン・メモ(a48)

8・9
 いよいよ風景についての議論がなされる。「8・8」における動物と人間、環境と世界の区別の先が問題になる。

「風景」「動物の環境と人間の世界にたいしてさらに一歩前進した段階」
「世界とそれを構成しているすべての要素」は「もはや動物の環境を形づくる部分ではなく、いまでは存在の平面上でひとつまたひとつといわば不活性化され、総体として新しい次元で知覚されている」。
「それらをこれまでになかったほど完璧かつ明瞭に見ている」が、「しかしまたわたしたちはそれらをもはや見ておらず、それらは風景のなかに見え去ってしまっている。」
「存在は、風景の状態のもんとにあっては」「宙づりにされ動かなくされる。」「世界は完全に自分尾ものとして所有することができなくなって、いわば存在と無のかなたへと向かう。風景を眺めやる者は、もはや動物的な存在でも人間的な存在でもなくて、当人自身が風景であるにすぎない。」「ただひたすら眺める。」

「世界が動物の環境を働かなくさせるものであったとsたなら、風景はいわば働かなくされるものを働かなくさせるもののことであり、不活性化された存在である。」「風景を形づくっている諸要素は、動物的な抑制解除するものでもなければ、存在するものでもなく、存在論的に中立である。」「無と非開示の形態にいて世界に内属していた否定性は」「いまやいとまをとらせられる。」

「風景は存在のかなたへと持ち運ばれてしまっているかぎりで、使用の卓越した形態である。風景のなかでは、自己の使用と世界の使用とは余すところなく一致する。自分のものとして所有することのできないものであるかぎりでの世界の状態としての正義は、ここでは決定的な経験である。」「自分のものとして所有できないもののうちにあっての〈生の形式〉もしくは正義としての住まい」
「世界にあっては人間が必然的に投げ出されて居心地が悪い状態に置かれているのだとしたなら、風景にあっては人間は最終的に自分の家にいるようにくつろいだ気分になる。」

・「環境・世界・風景」という仕方で、所有することなき使用という生の形式が、存在論的あるいは正義論的に説明された。「宙づり」「不活性化」というキーワードの理解がポイント。存在と無の彼方としての風景とは、何だろうか。もちろん、風景であるが。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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