われわれの現実と幻想あるいは虚構

 宗教研究に関わっていると、常に問題になるのは、「人間」という存在である。人間とは何か、という問いは、宗教とは何かという問いにとって不可欠の問題連関の中にある。こうした議論の最初の場(いわゆる直接性)へとアプローチする手法として現象学という方法論が存在するわけであるが、多くの場合、「厳密な」仕方での方法論として用いられているというよりも、ややおおざっぱな、場合によっては直観的な仕方で使用されており、方法論として細部にわたって明確な規定が必ずしもなされているわけではない(しばしば、言葉だけが拡散する傾向がここにも見られる)。

 こうした宗教、人間をめぐる基礎的な議論において、わたくしが最近再度テーマとして取り上げているのが、本ブログでも取り上げてきた、イデオロギーとユートピアという問題である。つまり、人間存在の社会的構想力から宗教へという議論であり、わたくしの構想では、拡張された自然神学の中の不可欠の問題となるはずのものである。
 こうした問題に交差するのが、もう一方で、この数年関わっている、脳科学と宗教というテーマであり、両者をつなぐキーワードが、幻想・虚構という、しばしば現実・実在と対立的に否定的な意味で論じられる問題である(この両者をつなぐのが、象徴あるいは言語であり、それが人間存在の時間性を意味である、というのはよくある議論かもしれない)。本ブログでも、取り上げた(?)と思われる、小坂井敏晶『民族という虚構』『責任という虚構』(いずれも、東京大学出版会)は、こうした問題状況を反映した典型的な文献である(『責任という虚構』では、脳科学あるいは神経哲学・神学でもしばしば話題のリベットの実験が取り上げられている)。

 こうした問題を、より脳科学に近いところで論じているのが、前野隆司である。例えば、『脳はなぜ「心」を作ったのか』(ちくま文庫)で、「指先でクオリアを感じるという事実は、錯覚と考える以外に考えようがないのだ」(143)という議論は、心はバーチャルワールドであると含めて、基本的に論の核心を突いている(前野氏の「受動的式仮説」を哲学思想史の内に位置づけることは困難ではない)。人間的現実は、虚構であり、錯覚である(虚構や錯覚という契機・作用なしには成立しない)。これは批判哲学の一つの帰結のはずである。ここに一連の構成主義が成立する。人間と人間的現実を、現実と虚構の二分法で、いわば実体化して捉える思考法が、哲学的に、そして科学的に限界にきているということである。

 しかし、わたくしとしては、こうした人間理解に同意しつつも、その表現の仕方という点では、小坂井の方により適切性を感じる。虚構、錯覚というのは、いわば価値中立的な用語として使用するのが適切であろう。

 また、前野の著書には、「神や神秘体験や霊魂は、すべて脳が作り出したものとして説明できるのだ。これらが脳の外には存在しないと考えても、何ら矛盾はない」(165)という言葉が登場するのが、こういう言葉を目にしてもびっくりする必要はない、これが脳科学と宗教を考えるときのポイントである。これは、ヒックが宗教と自然主義は論理的に相互論駁不可能であるという説明したことのかみ砕いた言い方であり、もし、ここから神の存在否定といった議論を行うとすれば、それは論理の飛躍(論点先取あるいは循環論法)の典型ということになる。脳科学の進展に注目しつつも、いちいち過剰に反応しないというのが、宗教研究の側で取るべき態度ではないだろうか。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR