キリスト教研究と大学

 現在の日本におけるキリスト教研究の中心が大学であることは、多くの人々が認めるところであろう。実際、大学にはキリスト教を学び、さらにはその研究者になることを目指し、少なからぬ人々が集まってくる。この10年の間に、わたくしが関わりを持っている、日本基督教学会近畿支部では、支部大会(3月)において、大学院生などの多くの若手が研究発表を行うようになり、その中より研究職につく人も着実に現れている。

 こうしたキリスト教研究の中心としての大学というシステムは、ヨーロッパ中世に遡り、それが近代化を経て、現在の形態にいたっているわけである。
 特に世界的な規模でのキリスト教研究の動向を見るときに、顕著な傾向の一つは、アメリカの大学が研究をリードするものとして活発に動いていることである。研究の中心がヨーロッパからアメリカに移行しつつあるというのは言い過ぎとしても、着実にアメリカのキリスト教研究の影響力は大きくなりつつあるのは事実である(特定の研究分野にとどまらず、かなり広範な研究領域において)。これは、世界的な研究拠点の広がりという点から、悪いことではないものの、英語による研究、アメリカ型の研究スタイルについて、それに一元化されるとすれば、それは長期的に見てかなりの問題を含んでいるといわねばならない。
 日本においては、初等教育における英語の重視ということにも関わって、大学への競争原理の導入(大学のランキング化)と大学の企業化が推進されつつあるが、その際のいわゆるグローバルスタンダードとして念頭に置かれているのがアメリカであることは言うまでもない。しかし、これが研究スタイル・制度(研究評価)の一元化ということを帰結するとき、キリスト教研究にとっては、決して幸福な望ましい事態ではないように思われる。
 そうした点を考える上で、興味深いのは、次の文献である。

富田由紀夫『米国キャンパス「拝金」報告──これは日本のモデルなのか?』中公新書。

 ここでさらに将来を見据えて考えるべきは、キリスト教研究における「市民科学」的発想である。市民科学者とは、故高木仁三郎の提唱によるものであるが、現在の大学とも共存しそれとネットワークを組みつつも、より市民に開かれた学の展開は、その実現に向けての状況が整いつつあるように思われる。市民の学問などというと、人生の老年期にさしかかった退職者の余暇・趣味を連想する人も存在するかもしれない。もちろん、こうした学問への求めにも対応しつつ、しかし、大学とは別のところで収入を得、インターネット経由も含めて大学が蓄積してきた文献・資料を用いつつ、自らの研究を高度に展開し、積極的に発表する人々(電子出版や電子ジャーナルはその現実化を可能にしつつあるのではないか)と、そうした人々を巻き込んだ知的なネットワークを構築すること。これは、今後のキリスト教研究の一つの可能性ではないのか。学問が国家や特定の企業に資金的に依存し制約されることから、もっと自由になれること、それは見果てぬユートピアなのであろうか。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
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