科学技術とキリスト教、高木仁三郎(2a)

 今回、取り上げる『市民科学者として生きる』(岩波書店、1999年)は、高木仁三郎が「抗癌研究所付属病院に入院していた一九九九年三月から五月の二ヶ月間に、病院のベッドの上で書かれた」(「あとがき」259)著書である。高木の生きた人生の軌跡を描きつつ(幼少期・敗戦、科学を志し核化学を専攻する、三里塚・賢治との出会いと、原子力資料情報室を通した反原発の闘い、市民科学者をめざす)、未来への希望を語った著作であり、高木の思想を理解する上で、ぜひ一読すべきものと思われる。

序章 激変のなかで
 京都─長崎─ストックホルム/旅また旅の後で/高木学校を始める/ベッドの上で考える/核の世紀/「市民科学者」について 

第1章 敗戦と空っ風
第2章 科学を志す
第3章 原子炉の傍で
第4章 海に、そして山に
第5章 三里塚と宮澤賢治
第6章 原子力資料情報室
第7章 専門家と市民のはざまで
第8章 わが人生にとっての反原発

終章 希望をつなぐ
 今を語るI 原子力資料情報室/今を語るII 高木学校/死の予感のもとで/理想について/危機感I1/危機感II/あきらめから希望へ/いま、市民科学者として

あとがき

 以下、本書の前半部分からの抜粋

「戦争体験に根ざして次第に私の中に強まっていた考え方の傾向は、国家とか学校とか上から下りてくるようなものは信用するな、大人たちの言うことはいつ変わるかも分からない、安易に信用しないようにしよう、なるべく、自分で考え、自分の行動に責任をもとう、というようなことだった。それは信条というよりはある種の直観的警戒心といった方があたっていよう。」(27)

「文学志向も科学志向も、私の中では境目なくひとつにつながっていた。時代状況としても、今のように<理科系>と<文化系>がはっきり区別されるようなことはなかったし、今でも私は受験とか学校のシステムが、強制的に「理科系」と「文化系」の区分けをつくり出していると考えている。」(43)

「東京生活への失望はなんとか破局にまでは至らず耐えたが、もう一つの完全な挫折が待っていた。数学志望からの挫折である。それはほとんど最初の解析の授業で決った。」(57-58)

「当時、原子力産業はまだ産業たり得ていなかった。そして、原子力への期待ばかりが先行している感じだった。ととえばちょうど私の入社した年、一九六一年に原子力委員会が発表した原子力研究開発利用の長期計画では、七〇年代には国産原発が実用化され、されもプロトニウム燃料を用いた高速増殖炉が主軸となるという方針が打ち出されていた」(72)、「そのようなことは、当時の私の考え及ばぬことだったが、政治的思惑ばかりが先行し、着実な技術的、科学的基盤がないという感じは、当時の現場の雰囲気として強く感じていた。結局、この政治性と技術的脆弱性が後に「もんじゅ」の事故をはじめとして広く国民に不信と不安を買う日本の原子力開発の問題点につながったのである。」(73)

「一九六四年の秋頃には、私は会社の中で疎外感と孤立感を深め、転職を考え始めていた。しかし、その時でも私は反原子力ではなく、原子力そのものの是非ということなら、批判派ですらなかったろう。」(91)

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