科学技術とキリスト教、高木仁三郎(2c)

引き続き『市民科学者として生きる』からです。

「この頃から、NGOという言葉が少しずつ新聞などでも使われ始めた。」(156)
「一般的定義は別にして、この時(一九八〇年代後半)環境・反核NGOに求められていたのは、環境の危機がいよいよグローバルな形を顕在化(オゾン層破壊、チェルノブイリ事故、地球温暖化など)させるなかで、国際的に連携してキャンペーンを展開すること、体制側のプロジェクトに対抗できるだけの批判的能力を組織的に確立すること、さらに、新しい社会のシステムや技術に対してその方向を提言すること(オルターナティブの提起)である。要するに、各国政府や私企業が、地球環境とその未来に対して公共的な役割を喪失するなかで、新たな国際的公共的役割を担うことである。」(157)

 原子力情報室が目指してきたことがよくわかる。宗教が公共性に接続するプラットフォームとしてのNGOの意味を考えるべきであろう。

「生き方や志の問題だけでなく、専門の営みはどうあるべきか、という点でも住民から学んだことは多い。」(205)
「話が難しく、まわりくどいというのは、基本的には「市民の科学者」としての自分が未熟だからだった。」(206)
「反原発の活動によって自分が鍛えられたことの中に、長年にわかって国家官僚や電力会社によって、ほとんど人格的に抹殺乃至無視されたという事実がある。」(208)
「原子力問題をやっていると、原子力賛成・反対を唯一の基準に、人の価値を評価したり、運動を評価したりする人に多くで会う。推進側・反対側双方にそういう面がある。」(216)
「原子力のような中央集権型の巨大技術を国家や大企業がひとたび保有するならば、核兵器の保有とは別に、それ自体がエネルギー市場やエネルギー供給管理のうえで、大きな支配力、従って権力を保障する。」(217)

「総じて、大きな失敗や挫折へと導かれても少しも不思議でないような、無謀でひとりよがりの試みが、多くの人々の好意的な支えによって、一応社会的な意味のある営みと評価してもらえる形で結実し得たことは、大きな幸運と呼ぶべきであろう。」(220)
「この「本気」を、もう少し分析していくと、確信と希望ということに尽きると思う。思想主義者の私は、核のに社会が必ず実現する(出来うれば二分の目の黒いうちに)ことへの強い確信をもっている。さらにそのために本気になれば、私自身が少なくとも一人分の貢献ができるだろうことへ、確信と自身をもっている。だから、私はいつも希望をもって生きていられる。先天的な楽天主義者と評されたが、それでよい。生きる意欲は明日への希望から生まれてくる。反原発というのは、何かに反対したいという欲求でなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である。」(222)

 希望、確信(信頼あるいは信仰)とは、いわゆる宗教という形をとらなくとも、人間であることの基盤に属している。そしてこれが「無数ともいえる人々との出会いから生まれた」(222)とすれば、それは友情、つまり友愛の支えられたもの。こうして、信仰、希望、愛という三つ組みが出そろうことになる。

 次回は、最終章へ。


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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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