二つの対話と対話論

 昨日は、南山大学宗教文化研究所における2012年度パッヘ研究奨励金による研究会(第2回、代表は金承哲先生)に招かれ、研究発表を行う機会を与えられた。かなり長時間の発表を行い、今年度の前期の仕事をまとめることができた。この研究会のテーマは、「統合的神学についての基礎的研究」であり、宗教間対話と「宗教と科学」の対話という二つの対話をさらに統合するという野心的なものである。わたくしの研究にも、あるいは本ブログにも関連する問題であり、その点からも、良い機会であった。

 発表は、この半年の間に行った仕事をまとめる形で(9月半ばということで、前期を締めくくり、後期を展望するということである)、前半は宗教間対話、後半は宗教と科学の対話という内容で用意したが、時間配分としては、前者に集中することになった。

 宗教間対話という点で用いたのは、この夏に書評を依頼され精読した、星川啓慈著『宗教と<他>なるもの──言語とリアリティをめぐる考察』(春秋社、2011年)である(書評原稿は8月末に完成し担当者に送付済み)。南山宗教文化研究所は、宗教間対話の長年にわたる具体的な取り組みで有名な研究拠点であるが、星川著は、対話の現場に距離を置いた哲学的観点(言語的宗教構成主義)からの対話論であることに特徴がある。この著作から、対話を論じる際の論点として以下のもの取り出した。
 ・理解(他者と自己。複数の他者の存在が対話の前提であり、対話は理解に関わる)と意味という観点。
    完全な理解というモデルを提出して、それから見て理解は不可能であるという議論とその限界、むしろ、
   現実の対話で可能になっている理解を前提に、それの可能性を論じるという議論の立て方の重要性。
 ・共通基盤。「一つの共同体に属している」という意識は、共通基盤となるか? 実体論的本質主義的な共通基
   盤という議論は、現代思想の文脈では困難であるものの。
 ・対話の形態。宗教の専門家(神学者、哲学者、知識人)による諸宗教の思想内容をめぐる対話という形とその
   問題性。対話はエリート的な形を超えた意味を用いるか。対話は民衆宗教という射程を用いうるか。発表後
   の質疑では、宗教研究が宗教の現場にいかなる関係にあるのか、あるべきなのかについても、議論が行わ
れた。対話の真の主体はだれか。
 ・対話の目的。なぜ対話が問題になるのか。その意義はどこにあるのか。「人類が勅命している課題・難題につ
   いて」、対話における「自己相対化」「自己深化」「自己拡大」

 これに続き、取り上げたのは、5月12日(青山学院大学)で行われた近代仏教史研究会のシンポジウムでの発題「キリスト教にとっての仏教の意味──近代日本・アジアの文脈から」である。この発表は、11月末まで論文化する必要があり、後期の授業が始まったからでは十分な時間がとれないという見通しで、この8月に一応の論文化は完了している。この論文化したものを圧縮し、必要なところを使用した。
 対話一般という宗教哲学的な対話論的設定ではなく、ここではこの150年間における日本やアジアでのキリスト教と仏教との関わりを具体的に取り上げつつ議論を行った。
 ・日本のキリスト教は教派教会というレベルでは仏教との関わりは積極的に問わけれことはなかったが、周辺的
   な場においては、仏教との関係は様々な仕方で模索されてきた(マリンズの言う「第一波の土着運動」)。
   仏教との関わりは、土着化論という文脈で論じられてきた。そこで現れたのが、包括モデルと連続モデルで
   ある(内村の「接ぎ木」は連続モデルの典型)。
 ・土着化論の限界。土着化とはなにか(従来の宗教と文化の分離論は、アジア的な宗教文化を分析するには不
十分である)、何にための土着化か、キリスト教にとって土着化が目的なのか。ここで、韓国の民衆神学、
そしてスリランカの解放の神学者ピエリスを取り上げて議論を進めた。貧しい者の解放の優先性と対話の必
要性(アジアの伝統的宗教はキリスト教に先行して解放のメッセージの担い手であった)。
 ・野呂芳男の「三角形の対話」論。神学の核心的事柄としての解放と、そこから論じられる対話は、民衆宗教と
   いう視点を要求する。野呂の実存論的神学は、こうした点でブルトマンのそれを乗り越える試みとなってい
   る。
 ・浄土仏教の意義。鈴木大拙の「日本的霊性」論もここから議論ができる。

 最後に、「宗教と科学」の対話として取り上げたのは、8月末に出版された、星川氏との共編著『脳科学は宗教を解明できるか?』(春秋社)に収録された「脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか」である。レジュメには、この論文の要点を記載したが、実際の発表では、ほんの部分的なところに言及できただけである。
 ・宗教と科学の対話は、「宗教と自然主義」という仕方で理解することが可能であり、「宗教と脳科学」はその
   もっとも新しいヴァージョンと言える。
 ・脳と心の相関関係の解釈をめぐる議論の展開。ヒックの議論(心脳同一論や随伴現象説は循環論である)。
 ・日本では、「キリスト教と脳科学」の間に対話という状況はまだ成立しておらず、現に行われている対話から   その成立可能性を問うという議論は成り立たない。ここが宗教間対話との大きな相違である。
 ・もし対話が成り立つとすれば、科学の側、そして宗教の側の双方における変革が必要になるだろう。科学の側
   では、近代的な科学モデルを乗り越え宗教との対話に場を与えうる自然主義の構築(18世紀的な唯物論や
機械論では対話は困難。しかし、現代科学はすでのこの形態を脱却しつつあるとも言える。科学自体の内的
な多様性)が求められ、宗教の側には、たとえば伝統的な(あるいは近代的な)神モデル(=人格神)の変 更が必要になるかもしれない(隠喩的神学はこの方向に踏み出している)。

 全体として、強調したのは、次の点である。
・対話の可能性を理論的に論じるには、本質主義や実体形而上学に復帰することではないとしても、いわば「柔らかい弱い人間性」からコミュニケーション合理性の構築が必要である(ここまでは、わたくしもかなり以前に到達していた結論であるが、この具体化には集中的な研究が必要であり、それができずに10年が経過してしまった)。
・二つの対話という実践的な営みを視野に入れ(対話の現象学)、それを前提に対話理論の構築すること。
・以上を、自然神学の拡張として捉え、そのためには哲学的思惟を意識的に含めた共同研究が必要になる。問題は人間理解・人間論にある。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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