宗教倫理学会第13回学術大会

 昨日、宗教倫理学会の学術大会が、京都駅近くの龍谷大学アバンティ響都ホールにて開催された。昨年に続き、便利な場所で、充実した大会となった(残念なことは、参加人数が少なかった点であり、開催時期やPR方法などについての工夫が必要かと思われる。会場が立派なだけに特にそのような印象をもった)。
 宗教倫理学会も第13回の学術大会を迎え、いよいよの発展が期待される。

 大会の統一テーマは、「3.11以降の社会と宗教」であり、3月から5回にわたって行われた研究会と夏期の一泊の合宿という過程を経たテーマとの取り組みになった(こうした研究会の積み重ねがこの学会の特徴である)。午前中は4人の個人研究発表が行われ(テーマは多岐にわたったが、宗教倫理学会という場に相応しいものであった)、昼食を挟んで、午後は、公開講演とシンポジウムというプログラムである。

 特に紹介したいのは、神子上惠群先生(龍谷大学名誉教授)による、「あたかも還相の菩薩の如く」という公開講演である。

 神子上先生は、3.11以降の状況を念頭に、次の二つの問いを立て、話を進めされた。1.「人間の自然支配の問題とその反省」、2.「浄土真宗の他力念仏への批判についての考察、真宗において利他的倫理の可能性」。西洋哲学の確かな学識に基づき(先生は京都大学大学院文学研究科西洋哲学史のご出身)、真宗の教学の的確な議論が行われた。よく整えられた明晰な講演であった。印象に残った点をいくつか挙げてみたい。

・人間は自然の一部だが、単純に自然に還元できる存在者ではない。パスカルの「考える葦」における「考える」という人間の在り方に、人間の自然をはみ出す面が示されている。(創世記には、人間創造について二つの物語が並置されているが、そこから人間と自然との関わりについての二つのモデルを構成できる。これは、神子上先生の議論にほぼ対応する。スピノザも念頭に置きつつ考えれば、自然のプロセスが自然からはみ出す人間を生み出してとすれば、自然には自己破壊的なプログラムが内包されていることになるか、あるいは自然は矛盾的存在か。)

・欲望のコントロールと宗教との関わり。欲望をコントロールするには、利己性を超えた価値規範が必要になる。それを明確に提示し、継承することが困難であるのが現代の状況である(とすれば、これは宗教との関わりでどのように捉えるべきであろうか。欲望あるいは大文字のエスを覆い隠していた宗教がその機能を弱めるとき、人間は剥き出しの大文字のエスに直面することになる。護ってくれるものはもはやない、これは危機か?)。

・他力念仏と倫理との関わり。(この問題は真宗の問題とし立てられたが、宗教倫理そのものの問いである。宗教と倫理の関わり、宗教倫理の成立は、それ自体まったく自明ではなく、問題的である。シンポジウムの終わり頃にフロアからこの点に関わるコメント・質問がなされた。宗教倫理学会はこの問いを内包していることに自覚的であるべきであろう。)この問題に対する回答が、「あたかも還相の菩薩の如く」である。ここで、パウロの「あたかも・・・あるかのように」を連想したのはわたくしだけであろうか。

・往相と還相が一つのプロセス・同時であるという理解の可能性。(これを還相回向の先取りと考えれば、キリスト教の終末論とはこうした構造に合致することが見えてくる。今ここのサクラメント(洗礼)は、終末の先取りであり、ここに信仰から行為への展開が可能になっている。)
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