韓国神学の動向(1)

 韓国神学の動向を考えるにあたって、まず民衆の神学から始めたい。わたくしが、本格的に韓国神学に触れたのは、民衆の神学からであるが、1980年代前半、今から30年ほどまえのことである(金大中事件、光州事件。このころ京都、そして京都大学はまだ「政治」の中にあった)。その後に翻訳出版されたのが次の文献である。

李仁夏・木田献一監修、キリスト教アジア資料センター編
『民衆の神学』
教文館、1984年。

監修のことば(李仁夏)
序文(木田献一)

1.韓国における民衆と神学──アジア神学協議会についての伝記的報告(徐洸善)
2.韓国仮面劇に対する神学的一考察(玄永學)
3.恨の形象化とその神学的考察(徐南同)
4.民衆的視点から見た韓国キリスト教史概略(朱在鏞)
5.民衆のメシア運動としての韓国キリスト教(金容福)
6.旧約聖書の民衆理解(文熹錫)
7.マルコ福音書におけるイエスと民衆(安炳茂)
8.二つの物語の合流(徐南同)
9.メシアと民衆──政治的メシア主義に対峙するメシア的政治の追求(金容福)
補論 一九七〇年代における韓国神学の展開(徐洸善)

筆者紹介
あとがき(蔵田雅彦)

 今から振り返ってみても、本書は韓国神学の動向としての民衆の神学の立場・主張・特色をよく示していると言える。この神学運動が、韓国の民主化闘争に積極的に関与したキリスト者から生まれたこと(「民主救国宣言」との関わり)、その神学としての中心が聖書学と韓国キリスト教史の分野に関わる神学者によって担われたことなどである。
 これは、民衆の神学における「民衆」を理解するときに重要な意味をもつことになる。民衆とは一方で、民主化を求める韓国の「民衆」であり、その中にキリスト者が存在し、背後には韓国史における民衆が指し示されている。また他方で、民衆はキリスト教の属する聖書的伝統における民衆であり(古代イスラエルの民衆であり、イエスが語りかけた民衆である)、以上の二つの歴史的文脈が交差したところに民衆の神学の「民衆」が位置すると言えよう。つまり、どこにいかなる民衆を見出すかは、歴史意識に裏打ちされた、解釈学的=実践的作業となるのである。民衆とは誰かと問いは、こうした視点から答えられることになる。

 民衆の神学とは、こうした民衆をテーマ化する神学であり、民衆と共に歴史的状況に関与しようとする思想的決断であると言える。もちろん、ここで取り上げている民衆の神学は、1970年代から1980年代にかけての韓国の歴史的状況において生まれそれによって規定された神学運動である。しかし、以上の民衆の神学の問題意識は、この歴史的状況に限定されたものではなく、キリスト教史において繰り返し反復されてきたもの、様々な文脈で共有されてきたものである。ここに民衆の神学が、数的規模における限界を超えて、現代世界のキリスト教神学において注目される理由の一端があるように思われる。普遍性とは個別具体性を論理的に否定するものではなく、むしろ、個別的具体性において指示・表現されるものと言わねばならない。キリスト教の普遍性とは、イエスの出来事がそうであるように、複数性の彼方における普遍性ではなく、複数性の只中において生起する普遍性だったはずである(ジジェク、ランシエールを参照)。
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