キリスト教と翻訳の問題(19)

 「キリスト教と翻訳の問題」と言えば、メインテーマは聖書翻訳であり、また、日本における聖書翻訳の歴史で戸起筆すべきは、口語訳聖書から共同訳、そして新共同訳への展開過程の意味である。聖書などの古典的な文献について翻訳が繰り返し反復されるという問題が翻訳を考える上で(等価をめぐって)、重要な意味を有していることは、すでに前回まで見てきたリクールの翻訳論が論じるとおりである。

 その中でも、共同訳聖書の企画とその失敗(?)はきわめて教訓的であり、聖書翻訳を論じる上で、注目に値するものである。これは、共同訳聖書の序言として共同訳聖書実行委員会の名の収録された文章(1978年9月の日付)における、「これはカトリック教会とプロテスタント諸教会の協力による翻訳は、今回の「共同訳」が最初のものであります」(ii)に止まらない。もちろんのこのカトリックとプロテスタントとの共同ということの教会史的意義は重大であるものの、ここで注目したいのは、「人類共通の宝である聖書を、現代の平易な日本語に翻訳することであります。したがって、教会の典礼や礼拝に用いることを第一の目的としたものではなく、従来の聖書に取って代わるべきものではありません」(iii)、「わたしたちは学問的な厳密さを保つと同時に、あくまでも一般の読者にわかりやすい訳をすること目指して、キリスト教独特の専門用語をできるだけ避ける配慮をいたしました」(iv)との記述である。

 ここで目指された「平易さ」、「わかりやすさ」とは、翻訳の心構え一般といった漠然としたものではなく、一つの明確な翻訳理論に基づいたものである。翻訳論一般の理論的基礎を意識した翻訳、これが翻訳としての共同訳について注目すべきポイントの一つであり、共同訳聖書の場合、ナイダの「動的等価」(dynamic equivalence)理論が理論的な基盤とされたこと言われる。等価という概念をめぐっては、リクールの翻訳論でも、「同一性なき等価」という仕方で展開されていた問題であるが、おそらく、この問題を聖書翻訳との関わりで具体的に論じるには、哲学的翻訳論からナイダを含む翻訳理論一般へと視点を拡張することが有益と思われる(これは、隠喩論などをめぐる言語哲学と言語学との関係にも似ている)。
 そこで、次回から、ナイダ以降の言語学的翻訳論へ議論を移すことにしたい。
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