科学・技術・キリスト教(2)

 科学・技術とキリスト教という問題を考える際に、いくつかの留意すべき事柄が指摘できる。今回は、その一つの問題、特殊な事例の取り扱いという問題について考えたい。

 科学技術において、しばしば画期的な発見といった表現が用いられることがある。もちろん、科学技術の個々の発見はそれぞれなりに画期的であるかもしれないし、近代以降の科学技術の創造物はまさに人類史上、画期的である。しかし、画期的な創造物も、別の観点から見れば、以前の到達点を前提としてそれを発展させたとの議論も不可能ではないはずである。原子力に関わる諸問題、例えば核兵器は、まさに画期的であり、戦争という概念を大きく変貌させるものとも言える。この点は十分に理解されねばならない。原発事故による放射能汚染も、ほかの公害で問題になった汚染とは次元の違う問題を引き起こしている。汚染が解決されるために必要は時間が、これまでに人類が経験してきた汚染や破壊とは桁違いであること、また解決方法がまだ見つかっておらず見つかる見通しもないこと。この問題については、ともかく解決の努力を続ける中で、試行錯誤を行いつつ考えるというのが、現状と言わねばならない。
 しかし、こうした画期的な事態の認識は、それ自体が問題を含んでいることを忘れては成らない。われわれは、ある事態が画期的であることの強調がほかの事態の問題性を軽視させることに陥ることはないであろうか。それは、核兵器といわゆる通常兵器との隔絶したとも言える破壊力の差が、通常兵器の問題への取り組みを後回しにするといった心理的効果を生み出すという点に表れている。キリスト教思想は確かに核兵器や原発の問題と真剣に取り組むことが求められているわけであるが、しかし、それは通常兵器を使用した戦争やほかの環境破壊を忘れてしまっても良いということにならないのである。何かに集中するとほかは視野から外れてしまうという危険が、画期的な問題にはつきまとうのではないだろうか。
 これは、ホロコーストや9・11など、いわば小さな諸問題に対する特権的な位置を占めるものとして問題化する際に生じがちなリスクでもある。核兵器や原発は、現代の科学技術についてまさに問われるべき焦点的問題である。しかし、それは、科学技術という人間の営みが生じる多様でしばしば些末とも思われる諸問題を視野に入れた取り組みであることが求められているのである。

 核兵器の問題は、現代のキリスト教思想において、様々に取り組まれてきた問題であるが、たとえば、古典的な取り組みの一つとして、ティリッヒの次の小論をここでは、あげておきたい。

パウル・ティリッヒ
「水素爆弾」(1954年)
R・ストーン編『パウル・ティリッヒ 平和の神学 1938-1965』(新教出版社)所収。

 この小論は、「人類の手中にある自己破壊手段の増加、また見たところ際限がないように思われるその威力は、こうした事態の展開の究極的意味への問いにわれわれを立たせる」(231)という文から始められ、5つの命題が提出されている。

 科学技術が破壊の手段をもたらしたことは否定できない事実ではあるが、それはたまたま何の意味もなく人類の降りかかった大災難として片付けることもおそらくできないであろう。科学技術がこのような仕方で展開してきたことにも究極的意味が問われねばならないように、思われる。これが、科学技術の神学の課題となる。
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