宗教倫理学会、2013年度研究会が始まる

 宗教倫理学会は、その年度の統一テーマに基づいて、3月から7月の毎月の一回の研究会(研究プロジェクト委員会主催)を積み上げ、夏の1泊2日の合宿を経て、10月の学術大会で一つの総括を行い、その間に学会誌を刊行するという仕方で、学会活動を進めている。2013年度のテーマは、「死者とともに生きる~3.11以後の死生観とその変容」であり、昨日3月8日に京都駅前のキャンパスプラザ京都で第一回の研究会が行われた。初回の研究会は、一般への公開という形で行われる。これもこの数年のやり方である。

 昨日の第一回の研究会(公開)は、北村敏泰氏(ジャーナリスト)を迎えて、「苦縁──東日本大震災 生と死に寄り添う宗教者たち」とのタイトルで行われた。内容は、北村氏が、この2年間、被災地で活動する宗教者に取材したことを元に、そこから浮かび上がる宗教者の在り方を報告するというものである。この内容は、現在北村氏が特別編集委員をされている中外日報に連載されたものがまとめられ、今回の研究発表の同じタイトル『苦縁』(徳間書房)として出版された著書に基づいている。
 以下、印象の残ったポイントを列挙しておきたい。

・「苦縁」とは北村氏の造語であるが、苦をきっかけにした縁、悲しむ人とそれを支える人との間に成立した関係、苦による関係性、死者と生者の命と命の繋がりという意味で用いられている。無縁社会と言われる際の無縁(北村氏は絶縁というべきと述べているが)との対極にある関係性である。

・宗教の二義牲。北村氏はご自身を、わたしは宗教者として被災地で取材しているわけではない、わたしは宗教者ではと述べているが、その場合の宗教(宗教1)と、宗教は大胆に大丈夫と語ることができなければならない、「行って」黙って重い荷物を共に担う行為が大切であるという場合の宗教(宗教2)。宗教1はティリッヒの言う狭義の宗教であり、固有名詞で指示できる宗教(制度と団体、名称で示しうる)であり、宗教2は広義の宗教という宗教概念を要求することになる。北村氏は、宗教について、あるべき宗教、宗教にこうあって欲しいと期待する宗教という意味で繰り返し述べるが、これは規範概念としての宗教であり、当然これは、宗教1との間にずれを生じることになる。宗教1の意味での宗教者が宗教2の意味での宗教者なわけではない。また、本人も他者もその人を宗教者とは見なさない人こそがその言葉と行為において宗教2を体現することがあり得ることである。この宗教2を体現する人こそが真に宗教者の名に値するとも言える。広義の宗教とは、この宗教1と宗教2という宗教概念の両義性を包括するものとして設定されたものであり(宗教1にも宗教2にもいずれ対しても「宗教」という言葉を使用することが出来る)、宗教研究には、こうした「宗教」という言葉の整理を行う作業(宗教の概念規定)が不可欠になる。

・宗教1と2の区別は、宗教における儀礼的側面と内面的側面との区別を要求する。北村氏は、被災地で死と生に寄り添う宗教者の活動として、葬儀や祈りといった宗教儀礼の意義を強調している。死者を弔う儀礼こそが、宗教者に何ができるかという問いに対して答える際にまず注目すべきものである(そうすると、他に何が出来るのかということが次第に見えてくる)。残された生者(遺族)にとって、儀礼という形は死者の死と向き合う際に大きな助けとなる(もちろん、必ずそうなるという意味ではないが)。経験・現実はそれに形が与えられるときに、了解可能な納得できるものとなる。宗教はこの形を与える営みにないする文法に相当する(北村氏は文法という言い方を使用したが、これはウィトゲンシュタインの議論を思い起こさせる)。宗教1は、この文法を伝承し保持するという点で重要な役割を果たしている。しかし、儀礼は宗教のすべてを汲み尽くすわけではない。被災地における圧倒的な現実に直面し宗教者は言葉を失いしばしば呆然とする。儀礼を執り行うことすら困難になる。この際に宗教者を支えるのは、北村氏の言い方では、「所作ではなく内実」「共苦」「宗教者としての覚悟」であり、これは被災地に来る前から宗教者が現実の場で積み上げてきたものを土台として成り立つものにほかならない(被災地において、「日常こそが災害」という無常の意味がはっきり自覚される)。これは宗教2に関わる。このように考えれば、宗教1と宗教2は区別させつつも、相互に媒介し合う関係が見えてくる。キリスト教のサクラメントについて、事効論と人効論の二つの理論が存在してきたが、それはサクラメントというリアリティのそれぞれ宗教1と宗教2に対応する要素を取り上げたものであり、サクラメントを成り立たせるのはこの二つの要素の関係であるということなのである(この関係を支えるのが伝統であり、それを現実化させるのが聖霊という位置になるだろうか)。

・問題は、現代の宗教的状況においては、この宗教1が急速に解体しつつあることである。これは世俗化と言われる事態であるが、現代の日本人は、日本の宗教文化の伝統が保持してきた宗教儀礼や象徴体系を喪失しつつあり、それは死に形を与えることを困難にすることが想像される。東北以上に、世俗化が典型的に進展する地域で、同じ大災害が生じたならば、そこで宗教者は3.11以上に困難な状況に直面するころにあるのではないか。不条理な経験に形を与えることは喪の作業であり、死とともに生きる者にとって重要な出来事であるはずであるが、この形を可能にする象徴体系が解体した後でわたしたちはいかにして喪の作業を遂行するのか。それはカウンセリングの役割なるのか。「災害ユートピア」から継続的なコミュニティの形を生み出す核(核の一つ、核の一端)になることが、「日常こそ災害」の現実において宗教の担う役割なのかもしれない。
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