中国という国について

 中国という国は、日本とのさまざまな歴史的な関わりの中で、また現代の状況下で、重要な位置を占めている。これは、キリスト教という視点から見てもそうであり、本ブログで東アジアとという文脈を意識する際には、韓国ともに中国が念頭におかれてきたことは言うまでもない。その意味で中国の重要性については今さらなわけであるが、その一方で中国のキリスト教というテーマが決して容易に扱い得ないことも事実である。本ブログでも圧倒的に韓国が扱われてきたのには理由がある。
 中国については、歴史を遡り根本的なところから考察を行うことが必要であって、研究にはそれだけの準備・予備研究が求められる。そうした観点から見て、興味深い文献を最近読む機会があったので、ここに紹介したい。それは、橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司の三人の社会学者による鼎談であり(基本的に、大澤、宮台が問題を提起し橋爪が答える形)、論客で知られる三人のやりとりは、読み手を飽きさせず(新書にしては分厚い380頁の文献であるが、一気に読み上げることができた)、学ぶべき参考にすべき点が多々あった。

橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司
『おどときの中国──そもそも「国家」なのか?』
講談社現代新書、2013年。

(項目が多いので簡略的に目次を示す)

まえがき(大澤真幸)

第1部 中国とはそもそも何か
 中国は「国家」なのか?/二千年以前前に統一できたのはなぜか/政治的統一こそが根本/中国生存戦略の起源/儒教はなぜ歴代政権に採用されたか/安全保障が何より大事/科挙と宦官の謎/ランキングへの異様なこだわり/漢字の秘密/日本人と漢字の関係/日中のリーダー観の違い/個人救済としての同郷

第2部 近代中国の毛沢東の謎
 なぜ近代化が遅れたのか/明治維新とどこがちがったのか/中国人はいつ中国人になったのか/天の代替物としてのマルクス主義/中国共産党はどうして勝てたのか/「指導部が正しい」というドグマ/毛沢東は伝統中国の皇帝か/毛沢東が欲求する社会/冷戦が終わっても共産党支配が崩れなかった理由/相転移する社会/日本よりも合理的な面/ナチズム、スターリニズムとのちがい/伝統主義か、近代主義か/生かす権力か、殺す権力か/文化大革命とは何だったのか/中華帝国の核心

第3部 日中の歴史問題をどう考えるか
 伝統中国は日本をどう見ていたか/中国人の認知地図/日本が大陸に進出した動機/近代の主権概念VS.東アジアの伝統/満州国の建国/日中戦争とは何だったのか/日本人の傾向/過去を引き受けるためには

第4部 中国のいま・日本のこれから
 「社会主義市場経済」の衝撃/鄧小平のプラグマティズム/中国の資本主義は張り子のトラか/共産党の支配は盤石か/民主化の可能性は?/中国は二十一世紀の覇権国になるか/日本は米中関係の付属物にすぎない/台湾問題/北朝鮮問題/日本がとるべき針路

あとがき(橋爪大三郎)

 もちろん、不満な点も少なくない。
・西欧近代の概念装置(主権国家、民族、国家、資本主義、民主主義)が中国を理解するには不十分であることはよくわかる。その上で、「中国がどういう意味で国家なのか」(19)は、読者としてのわたしの疑問でもあったが、結局それに答えるはずの第1部はこの点で中途半端である。結局何にであることになったのか。これは、この文献の射程を超える問題と言うべきなのだろう。ただし、中国と比較すべきは、日本やイギリスというよりも、EU全体であるとの話はなるほどと思われた。またその意味では、アメリカも同様の性格を有している。主権を有する一民族一国家という概念の抽象性。第2部では、「中国人はいつ中国人になったのか」という問いが扱われているが、そもそも漢民族とは何なのかが問題とも思われる(民族は難しいということのようではあるが。確かにそうであるが)。

・鼎談の三人はキリスト教についてもそれぞれ一般の日本人のレベルを超えた知見が感じられるが(橋爪、大澤共著で話題になった『ふしぎなキリスト教』から考えれば当然か)、その上で、単純な図式化が行われているのは限界が感じられる。日本でキリスト教を論じることは簡単ではない。また、どうようのことは、儒教と道教の理解にも感じられる。ということは、いわゆる宗教と呼ばれる現実への理解における問題ということになるのではないか。社会学を含めた近代的な学問が宗教を扱うとしばしばどういうことになるのか、という問題かもしれない。

・第3部を読んで感じるのは、「おどろきの中国」というよりも、その中国との近代以降の関わりにおける「おどろきの日本」「ふしぎな日本」ということである。ぜひ次の鼎談のテーマは日本論にしていただきたい。

・第3部最後の「過去を引き受けるために」と第4部最後の「日本がとるべき針路」では、東京裁判、靖国問題が取り上げられた。ドイツとの比較を含めた様々な議論を経て到達した「やっぱり東京裁判図式はイヤだなどと蒸し返さないことが大切です」(289)は理解できる結論である。歴史教育は難しいということもなるが、歴史図式は多かれ少なかれ虚構であるということを認めた上で過去を未来のために引き受けるということが確かに重要であるが、さらに理論的には、人間的現実とは虚構性を構成要素としてはじめて成立していること(事実と虚構の二分法は抽象的)を理解することが肝要である。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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