思想の試みとして、民衆へ(1)

 これまで、思想史という連関で「民衆」というテーマを論じてきた。日本キリスト教史から中世史(日本、そしてヨーロッパ)まで話は広がった。民衆史、民衆宗教などと言っても、議論は容易ではないこと、そのための研究側の道具立ては最近になってようやく整いつつあるというのが現状であることなどが明らかになった。これを思想研究あるいは思想史研究まで持ち込むとなると道のりはまだ遙かに遠い。

 問題は、問われる問題連関が複雑であり、それを確定するだけの資料が整っていないことにある。そもそも、思想と民衆との間に何の関係があるのか。両者を繋ぐ場は、歴史であり社会である(というわけで、社会史となる)。しかし、この歴史と社会がそもそも問題的である。森田雄三郎は、近代以降のキリスト教思想に共通の問題性として、「われ─われわれ」連関の理論的な解明不足を指摘している(『キリスト教の近代性』)。抽象化して言えば、こうした表現も可能ではある。しかし、この連関は少なくとも、「個人(思想家)─公界往来人の共同体─民衆」程度には分節化する必要があり、この全体、そして分節化された各項の間の動的な構造が問題となる。思想家として自覚を有する個人の、特に実践的な場面での苦悩はここに生じることになる。しかも、思想家が、この全体連関の問題状況を自覚しそれを変革するために民衆に関わろうとするとき、その困難は頂点に達すると言うべきかもしれない。ロシア文学の作家たちが、自らを「無用者」と呼び無力感を抱いたとき、そこにあったのは、この問題である(ロシア革命はこの状況を一挙に流動化させた。ナロードニキからボルシェビキへ)。

 今回から「思想の試みとして、民衆へ」の連載を開始する。カテゴリは当然「研究メモ」であり、将来への覚書に過ぎない。したがって、体系的な構成はほとんど念頭にはない(構成はそのうちに生成するだろう)。念頭にあるのは、取り上げるべき思想家たちの名である。範囲は、主には近代以降の日本思想となる。キリスト教思想史の中からは、内村鑑三、賀川豊彦など(取り上げるべき人物は多すぎる)、それ以外では、石川啄木、宮澤賢治、谷川雁などの詩人・文学者(こちらも多すぎる)は外せないだろう。さしあたり、後者の詩人・文学者からスタートする予定である。人物の選択はやや偶然的であり、わたくしの関心(好み)による。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
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