ふしぎなのはどっち? キリスト教あるいは「ふしぎ本」

 2年ほど前に出版され話題となり、この手のものとしてはかなりの売り上げとなった(刊行から一年で30万部とか)本といえば、わかる人にはすぐにわかるあの本、橋爪大三郎×大澤真幸著『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、2011年5月。わたくしの手元にあるのは第13刷)について、これに対する批判本である、ふツー連(ふしぎなキリスト教問題を考えるツイッター市民連合)・編『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』(ジャーラム新書、2012年10月)と合わせて、コメントします。
 コメントと言っても、細部にわたる具体的なものではなく、おおざっぱかつ断片的なものです。後で述べるように、この本を本ブログで取り上げるつもりはなかったのですが、本ブログでその後に出た『おどろきの中国』の方を取り上げて、こちらを取り上げないのもバランスがとれていないようにも思われたので、簡単なコメントをと思ったわけです。

『ふしぎなキリスト教』が大学の講義や教会などのキリスト教関係でも取り上げられ、積極的に推薦されてもいることは、噂には聞いていましたが、『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』の「第3章 ふしキリに迷わされた人々」に具体的な名前・Webアドレス入りで紹介されているのを見て、その広がりには驚かされた。『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』が、『ふしぎなキリスト教』の「誤り」(第2章)を批判すべき(第4章「なぜ『ふしぎなキリスト教』を批判するのか」)と考えるのも、その点で理解できる。『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』の言う「ふしぎなキリスト教問題」(第1章)というわけである。

・『ふしぎなキリスト教』はいかなる性格の本か。
 『おどろきの中国』もそうであるが、『ふしぎなキリスト教』は、大澤が質問し橋爪が答えるということを基本形とした対談集形式の著書である。わたくしは、対談集という形態の本は、プラトンなどは別格として、基本的に購入しないことを方針としている。特に、基礎的な知識を体系的に提示するには対談集が不向きであること、したがって、『ふしぎなキリスト教』は参考文献としてリストに挙げることはあり得るとしても、教科書的な扱いをすること、あるいは入門書として推薦することは、批判本での批判内容の当否以前の判断として、あり得ないと考えている(もちろん、間違ってそうしてしまうことは人間である限り、あるかもしれないが)。
 対談集がどうしてこうした性格のものになるかといえば、対談はいかに対談や討論ということになれた人によるものであっても、使用する用語の厳密さや推論の緻密さにおいて曖昧さを免れないからである(日常会話・談話との共通性)。また、多くの対談集には学術論文のような注が付されることはまれであり(『ふしぎなキリスト教』はまさにそうなっている)、批判本がその点について批判するのは(たとえば、典拠が示されていないことなどについて)、的を外していると言わざるを得ない。本来ならば何段かの説明・解釈を加えた上で提示されるべき論が結論のみ端的に示され、しかも言い方・表現が曖昧であるなど、おそらく例をあげればかなりの数に上るのではないだろうか。対談集とは基本的にそのような特性のものなのである。もちろん、だからといって、重大な(あるいは初歩的な)誤りをあたかも真実であるかのように書いてよいわけではなく、その点に批判本が存在する意味があるわけである。しかし、社会学者としては高名であり、関連分野を含めて博学な著者によるものではあっても、キリスト教を含め宗教にはいわばアマチュアである学者の対談集に、過度の期待をするのは無理と思われる。対談集は、断片的なひらめき、印象的な論述、機知に溢れたやりとりを楽しみ、知的な刺激を得るというのが、正しい接し方ではないだろうか。『ふしぎなキリスト教』の「あとがき」では、「「キリスト教入門」みたいな本なら、山ほど出ている。でも、あんまり、役に立たない」(345)とあるが、その当否は別にして、だからといって、『ふしぎなキリスト教』がキリスト教入門書として役に立つわけではないであろう。そもそも「役に立つ」とは、だれにとって、なんのために、どのようなコンテクストで、という限定がない場合、判断のしようがない問題である。宗教に疎遠な「平均的」日本人にとって?、大学での講義のために?、社会学者がキリスト教についての初歩的な知識を効率的に入手するために?

・もし、大学の講義や教会の読書会において、『ふしぎなキリスト教』をテキストとして使うことがあるとすれば、『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』とセットで用いると、議論が深まることが期待できるかもしれない。読書会は、大学でも学生を中心に比較的よく行われていると思われるが、語学力をつけるといった目的で行う場合は別にして、使用するテキストについて批判的な論評ができるチューターが存在するのが望ましい。古典的な素晴らしいテキストを使用しても、チューターなしでは、読書会内で出た問題点を適切に解決し理解を深めることは難しい。古典を読んだという記憶・満足感が残るだけということなりかねないし(それでけでも無意味ではないが)、誤読に気付かない場合もあり得る。しかし、対談集をテキストに使うくらいなら、もっとも適切なテキストがあるだろうと思われるが、いかがだろうか。

・ふしぎなのはキリスト教だけか。
 大学で宗教の講義を行ってきて気付くのは、あたりまえのことではあるが、宗教に関する知識レベルにあまりにも大きな差があること、そして「役に立つ」知識を十分身につけていない学生がきわめて多いということである。これは、宗教だけにかぎった問題ではなく、大学教育全般の実態であろう。おそらく、キリスト教はもちろん、仏教も神道も、そして日本という国・民族自体が、「ふしぎなもの」というべき理解度にあるのではないだろうか(「ふしぎ」と感じるかは別問題である)。これは、大学生だけの問題ではなく、国民一般に広がる事態であり、キリスト教について「「信仰の立場」を後ろに隠して、押しつけがましく」「教えをたれる」以前に、キリスト教のポイントを誤解なく理解してもらえるかが問われているのである。特に問題なのは、それぞれの専門領域では立派な知識人たちのキリスト教理解である。自分は知的に優れており(それはその通りとしても)、とうぜんわかったつもりになっている、あるいはちょっと調べればすぐにわかるはずと考える、ここに基本的な問題がある。こうした自分はわかっていると思い込んでいる人々の誤解を解くのは、かなり大変な作業になる。しかし、ここにこそ、単純で初歩的な誤解が存在するわけではあるが。

・わたくしとしては、『ふしぎなキリスト教』を授業で取り上げることは今のところ考えてはいないが、たしかに、大学生にどんな入門書、参考文献を紹介するかは、一度再考するべき問題かもしれない。4月から新年度となり授業も始まる時期の反省点である。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
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