哲学者が語る放射能問題

 東京大学で哲学を研究・教育している一ノ瀬正樹さんが、哲学者として3・11以降の原発事故という問題状況においてまとまった議論を展開している。この問題には多くの方々がそれぞれの立場から発言してきているわけであり、それには哲学者として分類される方も含まれている。その中で、哲学者としての立場を明確にし、そこから可能な発言を一つの著書という形で行うのは、まだそれほどは存在しないのではないだろうか(わたくしが知らないだけかもしれないが)。現代における哲学の可能性(もちろん、「哲学」とはなにかという問題が同時に問われることになるが。ここでは一ノ瀬さんの言う意味での哲学としておきたい)を論じる上でも興味深い。

一ノ瀬正樹
『放射能問題に立ち向かう哲学』
筑摩書房、2013年1月。

はじめに──3・11という転換点

第1章 低線量被曝とがん死
第2章 「放射能」というイコン
第3章 放射能と人体
第4章 安全と安心
第5章 因果関係への問い
第6章 確率と因果関係
第7章 年間一ミリシーベルト
第8章 予防原則の問題性
第9章 借金モデル
第10章 LNT仮説の不可断定性
第11章 「道徳的ジレンマ」を生き抜く

おわりに──なぜ哲学が放射能を論じるのか


参考文献

 もちろん、放射能・原発の専門家でない人間がこの問題を論じる際には、「専門家や有識者の見解に学」ぶことが不可欠であり、その意味で、「他者依存的な」議論にならざる得ない。「あくまで、二〇一二年秋現在までの思考の記録ということ」(14)である。それにもかかわらず、この個人的な記録を一つの著作として公に形にする意図は、次の引用において示されているように思われる。

・「哲学を学んだ眼で事態がどのように映っていたか」(13)を公にして、「いささか異なる視野を開くこと」(14)。また、「首を傾げるような言説が飛び交っていた」(250)状況において、「議論の交通整理をするぐらいはできるかもしれない」(251)。
 これは哲学に期待される役割の一端であることは同意して良いだろう。

・「加えて、哲学史のテキスト解釈ばかりに閉じこもって、日本の哲学研究が哲学の本来の姿から外れてしまっているという現状を少しでも突き破りたいという、私なりの挑戦心もある」(14)。
 これも意図・気持ちとしてはわからないでもない。わたくし自身は自分を哲学者であると意識することはほとんどないが(基本的にはキリスト教研究者であり、必要に応じて哲学を学び、哲学的な思考を参照したいと考えている者)、現在の大学における人文学の共通の問題状況の一端は共有できる。もちろん、自分を哲学者として自認する方々には、この一ノ瀬さんの「日本の哲学研究」の現状理解に反論があるかもしれない。いずれにせよ、この意図に即して考えれば、この「挑戦」が具体的にどのような哲学的知を提示しているかによって、本書の意義は判断されるべきであるということになる。

 この点で、本書における「哲学」が一般の諸議論とは「異なる視野を開く」でき、「日本の哲学研究」の現状を突破できたかについて、中心になるのは、本書の特に哲学的部分であると思われる、第5章、第6章、第9章、第10章、そして第11章であろう。いかにも哲学者の議論としてうなづける部分と、やや疑問が残る部分と、読後感は人によってさまざまであろう。ともかくも、哲学者の「挑戦心」を良としたい。
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