内村鑑三論から

 現在、京都大学での演習において、内村鑑三の非戦論に関連した文章を読みつつある。ようやく、日清戦争に関わるものを一定程度読み終わったところであり、内村の歴史観(歴史哲学)あるいはアジア観の特徴が浮かび上がってきた。
 内村のアジア観については、さまざまな角度からの研究が可能と思われるが、今回は、やや変わったところとして、経済史の専門家による内村論を紹介したい。

滝沢秀樹
『韓国へのさまざまな旅』
影書房、1992年。

 これは、滝沢氏の言わばエッセイ集と言える著書であり、氏と韓国との関わりがさままざまな内容の文章によって綴られている。第一部は、在日韓国人政治犯・コビヨンテク氏に関わる諸文書が収録され、第二部には、韓国の歌謡曲・社会科学・文学に関する文章が収録されている。最後の第三部が、「III 韓国と日本人、世界のコリナンズ」であり、その中ほどに収録されているのが、「内村鑑三と朝鮮」(215-242)であり、次のような書き出しになっている。

「内村鑑三のナショナリズムの個性的な性格を理解するために、私は、従来の内村研究においてあまり注目されてこなかった、彼の国民経済観を検討してみたことがある。」(215)

本論文では、キリスト教学の本年度の演習でも取り上げた、「日清戦争の義」「日清戦争の目的如何」「寡婦の除夜」などによって、内村から、「アジア的停滞論」というべきアジア観が抽出され、「内村は朝鮮人キリスト者との人格的交流によって、朝鮮人が民族としてもつ苦難に共感するところにまで至り、その限りでかつての脱亜的朝鮮観から抜け出していった。にもかかわらず彼は遂に朝鮮民族の民族形成史をそれとして理解することができず、従ってまた朝鮮民族の《恨》に共感するところまでは至らなかったと、言わねばならない」(238)との指摘がなされている。

 結びは、次のようになる。

「内村の"I for Japan"と"Japan for the World"を媒介するものとして、もし、"Japan for Asia"があったとしたら、それはどのようなものだったであろうか。本稿はそれを考えてみたささやかな詩論である。」(239)

 この問いは、内村に続く思想家で、植民地経済論を専門にしていた矢内原において論じるとどうなるであろうか。そこに内村との差異は認められるであろうか。
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