近代の特異性と公共の形

 先日の北海学園大学でのシンポジウムについては、すでに報告した通りであるが、そこで考えたことについて、若干のメモを残しておきたい。
 自分の専門領域以外の研究者とは、日頃、同じ場で討論したりする機会の少ないのが現実であるが、こうしたシンポジウムにおいては、専門領域以外の研究者とやりとりする中で、重要な刺激を受けることが少なくない。これが、シンポジウム(そして懇親会)に参加する意義である。こうした機会に様々なことを考えることは、自分の専門研究にとっても重要なことであり、専門領域に閉じこもり、ほかの分野の研究動向に無関心な在り方は、結局その研究がもっているはずの可能性や魅力を半減させることになるだろう。これは、学生の研究指導を行うなかでしばしば気になる点である。

 さて、今回のシンポジウムでは、東北大学大学院文学研究科の佐藤弘夫教授(日本思想史)にはじめてお目にかかることができた。わたくしが最近「日本」に関連する研究を進めている関係もあり、以前より隣接分野の研究者として気になっていた方であり(宗教研究という点でも)、今回の佐藤氏の発題「神・人間・死者─日本列島における多文化共生の伝統─」は、わたくしの発題とも共鳴し合う点があり、刺激を受けることができた。

 ポイントは多岐にわたるが、近代という時代の異形性(特異性)が近世以前の文化伝統との対比で明確に提示された。それは、日本列島に展開していた伝統的な多文化共生を可能にしていた「カミ」の存在、人間以外の存在者(カミ、先祖、自然。生と死・・・)との関わり(交流・重なり)が喪失することによって、人間が生きる関係性がとげとげしく殺伐なものとなってしまったということである。「カミによって立ち上げられた公共の空間は、人間同士がじかにぶるかりあうことを防ぐ緩衝材の役割をはたしていた」からである。この緩衝材が喪失するとき、最近の日本を取り巻く領土問題が示すように、「共同体同士の直接の衝突」は不可避となる。「辺境の島々はその領有を争う場所ではなく、身を清めて航海の無事を静かにカミに祈る場所だったのである」。

 この「カミによって立ち上げられた公共の空間」という指摘は、本ブログでも以前に紹介した日本の中世史研究者・網野善彦が取り上げていた「公界」に通じる問題ではないだろうか(これもシンポジウムの特徴であるが、深い議論を行うには時間不足ということになることが少なくない。しかし、そこで得た刺激を自分の専門研究の場に持ち帰ることによって、議論は深められるのである)。このような近代以前の「公共の空間」の存在意味を問い直し、近代・現代を相対化し、人間性を豊にすること、これにいかなる寄与を行う得るかが、現代の人文学に問われている。これが、今回のシンポジウムの結論の一つと思われる。
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