死と死者儀礼(3)

 2日前の記事「死と死者儀礼(1)」で述べたように、わたくしは、この3月に「波多野宗教哲学における死の問い」という論文をキリスト教学研究室の紀要において発表した。

 参考までに、この論文で比較的まとまった形で引用した波多野の文章をここでも紹介しておきたい。

 まず、この論文の概要はおおよそ次の通り。
「波多野宗教哲学において、「神」と「救済」という二つの問いは「宗教の本質論」に続く、宗教哲学の主要問題とされているが、「死」が問題となるのは、特に後者との関連においてであって、その最重要テキストは、『時と永遠』である。したがって、本稿では、主に『時と永遠』に依拠しつつ考察が進められることになるが、その中でも、中心は、『時と永遠』の「第四章 死」(「一八」「一九」「二〇」節)と第七章の「五 罪 救い 死」(「四五」「四六」節)の二つの箇所である。前者が、哲学的人間学における自然的生と文化的生の議論と関連するものであるのに対して、後者は、罪との関わりおける「死」の考察であり、死が、存在論的問いであるともに罪責性の問いであることを示唆している。そして、この「死」の解決が、永遠あるいは救いとして論じられるのである。」
「波多野はこのエピクロスの議論を死の客観主義的理解に対する的確な批判として肯定する。「生きる者にとっては死は無く、死したる者は自らすでに存在しない」からである。すなわち、「死への関心」の核心は、客観的出来事としての死の内には存在しないのである。しかしまた、客観主義への批判もそれだけでは、死の核心を捉えたことにはならない。これに対して波多野が提示するのは、「何もの何事にも、従って客観的出来事としての死にも、出会わぬようになること」に対する恐れこそが「死への関心」の核心に存在するという論点なのである。この波多野の主張は、人間的生が他者との関係存在であるという議論が前提となっている。人間が本来他者との関わりにおいて生きる存在者であるとすれば、自らの存在の根源である他者ともはや出会うことができない点にこそ、人間的生の根本的危機、しかも自然的生としては必然的な危機が存しており、人間の死への関心(恐れ)の核心点はここにあると言わねばならない。」

 以下、波多野からの引用。
・「近時の民俗学は興味ある一事実を明かにした。それは未開の原始民族の間においては死の観念が極めて稀薄なことである。原始人にとっては生きる者が飽くまでも生きるということは自明の事柄であり、生が死をもって終らねばならぬということはむしろ不可解である。特に恵まれた個人ばかりでなく全き種族が生きながらに楽土に移されるという思想は決してめずらしくない。死こそかえって不自然であり特に説明を要する事柄なのである。死の必然性が心に刻み込まれるに至った後も、彼等は死を生の終極とは考えず、むしろ単に異なった形における生の延長と考える。死は彼等にとっては特殊の生き方に過ぎぬ。」

・「現在に耽溺して足元の地盤が絶えず動搖し絶えず非存在へと消え行くに気附かぬ文化人は、死の実相を正面より見詰めるを怠って乃至嫌って、死を生の一形態と見る幻覚に知的乃至情的満足を貪る。」

・「統一的全体的主体にとって存在の維持者である実在的他者との交渉が断たれ、従って根源的意義における将来が無くなることが死である。対手を失つた主体、将来の無き生、これが死である。」

・「すでにしばしば、あるいは客観的実在世界の認識並びに主体の自己認識に関して、あるいは文化的時間性に関して、それらの成立の根拠として明かにされた、反省の主体と体験のそれとの同一性、先験的同一性、はここに死の観念に関しても、理解の基本的制約をなすことが明かであらう。しかもここではその同一性は最も徹底的なる形において承認を要求する。」

・「主体としての存立を保っていることそのことがすでに反逆を反逆として認めぬ恵みの賜物なのである。この世この生そのものがすでに罪の赦しの上に立っている」(221)、「人事を尽くしうるそのことがすでに天命によるのである。」

・「厳密の意味における死の覚悟に達するに及んではじめて人はこの世の生の行くえに目覚めるのである。それ故死の覚悟は主体が本然の姿に立戻るための重要なる一歩、神聖者との真の共同へと踏出されたる一歩というべきであり、従って悔いの一つの形態、しかも罪悪そのものの明かなる自覚なしにも起りうる故、悔いの最も原始的乃至基本的なる形態というべきである。すべての純真なる悔いは神聖者の愛によって成立つ故、死の覚悟もまた恵みの賜物であり罪の赦しの発現である。」

・「人は決死の尊さについて語る。しかしながら死の決心をなすことそのことが尊いのではない。例えば、この世の苦悩を遁れんがための決死は、死を生の存続となす前提の上に立つものとして、自己矛盾を含む愚挙であるが、更に自己の責任を遁れようとする卑怯の振舞でさえある。総じて軽々しく死を決するは、他者に委ねらるべきものを自ら処理しようとするものであって、神聖者に対する冒瀆である。これに反して、神聖者の言葉・神の召しに応じての、責任と本分との自覚よりしての決死は、真の永遠の閃き、神聖なる愛に答える純真なる愛の輝きである。ここまで達すれば、人は更に一歩を進めて死そのものをも恵みとして受けるであらう。罪の赦しの背景のもとには、生がすでに恵みであり、死はまた更に恵みである。滅ぶべきものが滅びるのは、生くべきものが生きるための前提として、無より有を呼び出す永遠者の発動でなくて何であらうか。」

・「自然的文化的生が根もと深く罪を宿しながらなお神の恵みを容れる器となり、信仰より愛へ真の人倫的共同へと向いつつ、時の真中に現われる永遠的生の蕾を宿す幹となりうるのも、ただ罪の赦しによるのである。かくて与えられたる持場において及ぶ限り能う限り自己の職責を果し、私を棄て己を虚くして人にまた公に奉仕することが、罪の赦しをすなおに受けつつ恵みに答える道となる。貧者の一燈・やもめのレプタ(一錢)もここでは窮みなき尊さに輝く。」

 「時と永遠」という事柄は、死の思索を経た思索のテーマであり、波多野が自らの人生において死と向かい合ったこと(太平洋戦争時の疎開はもちろん、自らの病、身近な人々の死・・・)を抜きにしては、その愛の思想は平板化するであろう。

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