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『学術の動向』から

『学術の動向──科学と社会をつなぐ』 2019. 12 (日本学術会議)が届きました。
 今年も、残り1ヶ月を切りましたが、まだまだ年末年始は遠く感じられるこの頃です。授業に加え、それまでに、行わねばならない仕事が山積み状態で、毎週毎週が乗り越えるのが、精一杯です。忙しいのは、仕事を引き受ける自分の責任と言えばそうではありますが、年度当初の見通しでは、10月を乗り切ればなんとかなるはずだったのが、すっかり見通しが外れました。というわけで、ゆっくりした年度末は、まだ先の話です。

 さて、12月の『学術の動向──科学と社会をつなぐ』は、通常より大分薄めの大きさで、特集は、1つです。

■「SCJトピックス」
・「研究者の「働き方改革」と自由な研究時間確保の両立についての学術会議声明」を公表」
 これについては、現場との乖離を感じるのは、わたくしだけでしょうか。おそらく、全大教からのコメンなどがそのうちに表明されるはずです。
 
【特集】「Gender Equality 2.0 からSDGsを展望する──架け橋」
 「男女共同参画」に関わる根本的な見直しの必要性があるとすれば、それだけの取り組みが必要になる。形式的でアリバイ的な対応で、なんとかなるというのが、そもそも甘い考え。数合わせを求められる側は大変。

・「すべての人の可能性が開花する社会を目指して」
 (濱口道成)
・「ジェンダーと家族の未来」
 (山極壽一)
・「トランスジェンダー大学教員として思うこと」
 (三橋順子)
・「顔を変えるということ」
 (原島博)
・「起業と経営の現場からジェンダーを考える」
 (秋山咲恵)
・「データ分析で見るジェンダー平等の日本の課題」
 (藤原綾乃)
・「アカデミックキャリアにおける「多様性の尊重」と「生産性」を意識した働き方─長崎大学における取組の紹介」
 (伊東昌子)
・「日本におけるジェンダー平等を阻むもの」
 (伊藤公雄)

 日本のキリスト教界の長期停滞とジャンダー問題は、おそらく、根本的に関連し合っている。

 そのほかに、次の記事。

◆「学協会の今──社会と向き合う 14」
・「日本口腔科学会の果たすべき役割と今後の展開」
 (丹沢秀樹)

■「SCJ提言・報告要旨」
 7本

アガンベン・メモ(b3)

1・2
『カテゴリー論』 の基本性格(「著作の対象」)について。

「古代の注解者たち」
「言葉なのか」「事物なのか」「概念なのか」
「ヨハネス・ピロポノス」によると「概念をつうじて事物を指示する言葉」という「イアンブリコスのテーゼ」

「『カテゴリー論』において論理学と存在論を区別することの不可能性」
「アリストテレスが問題にしているのは、言語活動によって指示されるかぎりでの事物=存在者なのであり、事物=存在者に言及したものであるかぎりでの言語活動なのだ。」
「存在は言われる」
「西洋哲学の歴史においてカテゴリーは述語作用の類としても存在の類としても立ち現われることとなるのである。」

 たしかに、西洋的思惟の基本特徴はここに見出されるのだろう。

アガンベン・メモ(b2)

1・1
第一考古学は、当然、アリストテレスから開始されることになる。『カテゴリー論』である。

「アリストテレスの存在論を定義している存在の分割装置」
・第一ウーシア。「《最も本来的な意味で、そして第一に、また最も多く言われるウーシア(本質・実体)》」「《基体(hypokeimenon)──下に横たわっているものsub-iectum について言われることもなければ、基体のうちにあることもないもの》」「特異なもの、固有名、デイクシス[直示語]をつうじて例示される《この特定の人間》、《ソクラテス》、《この特定の馬》」
・第二ウーシア。「《第一のものと言われるウーシアがそれのうちに現在している種と、さらにはそれらの種の類》」
「分割がその歴史のなかで分節化されてきたさいの語(第一ウーシアと第二ウーシア、本質存在と現実存在、quod est [存在すること]とquid est [存在するもの]、anitas [存在性・「が在る」性]とquidditas [何性]、共通本性と代示・・・)がなんであれ、決定的なことは、西洋哲学の伝統のなかせ存在は生と同様に、つねにそれを横断する分裂から出発して問われるだろうということである。」

続く中では、「ヒュポケイメノン」のラテン語訳について、トマス・アクィナスの用語で、存在の分節化がどのようになされているかが論じられる。

 このセクションの締めくくりは、「そのつど表現される用語がなんであれ、この存在の分割がハイデガーによると西洋形而上学を定義しているという[存在と存在者の]《存在論的差異》の根底にあるのである。」

 人間であること、文化的であることは、分節化を基礎にする、ということ。この分節化の仕方に、文化圏の特徴が存在する。

アガンベン・メモ(b1)

 『身体の使用』の第一部のメモが完了したことを受けて、アガンベン・メモをどのように再開するかについて考えてきましたが、本ブログで、第二部のメモを掲載するということに考えがまとまりました。メモが完結するまでかなりの時間がかかることが予想されるなど、メモの再開にはやや躊躇する点があったが、ともかくも、アガンベン・メモは再スタートとなる。

第二部 存在論の考古学
 本論(三つの章、存在論的装置、ヒュポスタシスの理論、様態的存在論のために、とインテルメッツォⅡが含まれる。第一部よりは、コンパクト)に先だって、第二部における問いが示される。

第二部の課題は、「第一哲学すなわち存在論へのアクセスが今日もなお──あるいは新たに──可能かどうかを検証」することであり、これは、「中断してしまったか見失ってしまった小径をふたたびたどることができるか、それとも、最終的に放棄してしまわざるをえないかかをみずから尋ねようと」することである。

アガンベンの戦略は、これを、「考古学という形態」において遂行しようとすることである。それは、次の理由による。
・「存在論には西洋の歴史的命運がいっぱいに詰めこまれているが、それは存在に説明不可能でメタ歴史的な魔術的力が属しているからではなく、まさにそれとは逆に、存在論は言語活動と歴史的に分節化される根源的な場所であるからからである。」
・「存在論はアントロポゲネシスの記憶、その分節化が産み出される瞬間の記憶をみずからのうちに保存している。」「人間が人間的な存在になるということは、過去に一度起きたならそれで完結してしまう出来事ではない。それはむしろ、たえまなく起きる出来事であり、現在もない進行中の過程であって、その過程のなかで人間はつねに人間的な存在になりつつあるのであり、同時にまた、つねに非人間的な存在のままでありつづけている(あるいは非人間的な存在になりつつある)のである。」
「第一哲学はこの出来事の記憶であり反復である。」
「この歴史的ア・プリオリに考古学的研究はそのつど遡ろうとするのである。」

ここで、「考古学」という言葉から想像されるように、フーコーへの言及からはじまる長めの注が入る。

「哲学的考古学を、人類の歴史を条件づけてそのもろもろの時代を定義している歴史的ア・プリオリを明るみに出そうとするこころみであると定義」した上で、アガンベンは、「第一哲学の不可能性」という事態についての考察を、カントからハイデガーまで、そしてハイデガー後において辿ることで示そうとする。
・「カントが「形而上学」と呼ぶ第一哲学の不可能性」。「歴史的ア・プリオリのアントロポゲネシス的出来事(言語活動と世界との分節化)から認識への転位、もはや動物ではないがいまだ人間でもない存在から認識する主体への転位」、「存在論はこうして認識論に変容してしまい、大地位哲学は認識の哲学に転化する。」
・「ハイデガーまでは、カント以後」「超越論的次元にまるでそれが独りだけでやっていけるとでもいうかのようにしがみついてきた。」「まさに諸科学のほうでは無制限の技術的進歩に向かって放り出されて、そのようなみずからの科学としての可能性の条件の定義などはなんら必要としていないことを証明しつつあったというのにである。」
・「超越論的なものからの脱出の道を探ろうとしたのは、ニーチェ、ベンヤミン、フーコーといった何人かの非職業的な哲学者と」「エミール・バンヴェニストのような言語学者であった。」「認識から言語活動へと後ろ向きに転位させることによって」、「言表の生起をそれらの意味内容以前のところ、あるいはそれらの意味内容を超えたところで問いに付していた次元を個別に取り出すことによっておこなっていたのだった。」
「話者がカントの超越論的主体に取って代わり、言語が歴史的ア・プリオリとしての存在の場を占めることになったのである。」

「存在論のこのような言語学化の傾向は今日、完結点に到達したようにおもわれる。」
「しかしまた変化してしまったのは」
「言語活動はもはや、思考されないままにとどまりながら、言葉を話す人間たちの歴史的可能性を規定し条件づけるような、ひとつの歴史的ア・プリオリとしては機能していないということである。」
「存在と全面的に同一化」「非歴史的な中立的現実として定立」、「もはや歴史的生成のそれを確認できるなんらの意味も条件づけておらず、また時間のなんらの画期的分析化も条件づけていない。」
「わたしたちはいかなる歴史的ア・プリオリにも規定されていない」「時代、」「すなわちポスト歴史的な時代」「に生きている。」

「存在論の考古学」「存在論的装置の系譜学」を「たどうろうとこころんみているのは、この見方に立ってのことである。」

アガンベンの問題意識はかなりはっきりしてきた。カント以降の哲学的思惟が現代の言語論的転回によって大きく転換したなかで、挫折した・中断した存在論の別の可能性を考古学という道を経由して再度思考すること。 

雑誌紹介50

 間瀬先生の研究室出身の方々を中心とした「間瀬スタディグループ」が発行している『宗教研究』の32集が届きました。今回も、このスタディグループの活動が多岐にわたる論考となって掲載されています。

間瀬スタディグループ
『宗教研究』32集
2019年。

巻頭言
 (間瀬啓允)

第8回 間瀬スタディグループ 合同研究発表会
・合同研究発表会開催にあたっての短い挨拶 (間瀬啓允)
・〈異教の隣人〉と暮らす私たちに いま 問われている課題は何か (三木英)
・宗教観の医療活動の連携による平和──宗教の多元的協働に期待されるもの
 (奈倉道隆)
・宗教の起源としてのアニミズム心性 (末田啓二)
・神とは何か、何者か?──ヒック先生の議論-訳書『神とはいったい何ものか』第一章-紹介
 (若林裕)
・Memento mori──旅立ちに準備 (長谷川(間瀬)恵美)
・無心のケアが開かれるとき (坂井祐円)
・五次元世界と魂──人工知能との連携での東西思想統合に関する考察
 (上村敏文)
・仏教の「空」とホワイトヘッドの「神の三つの本性」
 (今井英夫)
・人とAIの共生をめざして──機械との主体的関係
 (南雲功)
・最近、思うこと 人間とは何か、このどうしようもない生き物
 (小川清之)
・エッセイ 合同研究発表会に出席して──懇親会スピーチと、オプショナルツァー
 (松永凱晴)

論文・諸研究
・内村鑑三とM・ガンディーの宗教思想における暴力・平和観(2)──非暴力の実践
 (渡邉章子)
・ブランティアと平和学──人は愛し合うために生まれてきたのであって、戦争するために倦まれてきたのではない
 (鈴木安夫)
・エッセイ リアルとヴァーチャルのせめぎ合い──日常的風景から
 (岡本由起子)

アクティビティ・諸記録と考察
・祝「哲学カフェ」開講 (鈴木敏夫)
・エッセイ 老いること──まわりや自分との対話から見えてきたもの
 (中田好子)

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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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