『福音と世界』より(3月号前半)

『福音と世界』 2018. 3(新教出版社)が届きました。 先週は大学院入試が行われ、昨日は合格者の発表がありました。これで、入学試験関係は一つの山を越え、残りは、大学入試(一般入試・2次試験)となります。一方で、この時期に行うべき研究の方は、予定通りに進めることができ、まだ先がありますが、なんとかなりそうな感じがしてきました。
 以下、3月号の前半です。

 今回3月号の特集テーマは「キリスト教と犠牲のシステム」です。今回の特集は、キリスト教を含め宗教に密接な関わりのある「犠牲」という問題を、現代の問題状況(日本における愛国思想の高揚とその延長線上に浮かび上がる恐れのある国家・民族に対する犠牲、殉国の論理)において問い直すものとなっている。また、ルネ・ジェラールや高橋哲哉の「犠牲」をめぐる議論も、特集に収録された諸論考では教諭されている印象を受ける。とこあれ、「犠牲」でそもそも現代におけるいかなる事態を問うのかが問題であり、キリスト教的に言えば、現代のキリスト教において何が克服されるべき具体的な「犠牲のシステム」なのかが明確にされるべきであろう。

 収録された論考は以下の通り。

・「犠牲の論理とイエスの倫理」 (小原克博)
・「周縁者への暴力に荷担しないために──イエスの死のメタファとその解釈」 (浅野淳博)
・「十字架と模倣的欲望の終焉──ルネ・ジェラールによる十字架の意味」 (松平功)
・「長崎原爆と殉教」 (小西哲郎)
・「犠牲の再生産に抗するために──高橋哲哉さんと語る」 (座談会参加者:大川大地、福山裕紀子、工藤万里江)

特集と連載の間に、次の書評が掲載。
・書評「わたしたちの応答をうながす静かだが力強い絵本『いのちの水』(岡田圭)

続いて、連載。
・ブレイディみかこ:地のいと低きところにホサナ3 「命のパン」問題を考える。
「命のパンとは、人を生かすための文字通りの食べるパンが発祥なのだということを忘れると、宗教も思想も政治も、地べたから乖離してひらひらと中空に舞うばかりだ。」

「福音の地下水脈」第5回 FUNI(前編) 「自分の感覚だけが信じられなくなる場所が原風景」

 川崎、在日、ヒップホップ、教会

・高井ヘラー由紀 「はじめての台湾キリスト教史(12)」:「台湾の「本土化」と原住民のキリスト教」
 今回で、この特集は最終回とのことです。ご苦労様でした。
 「一七世紀以来、歴代の外来統治権力のみならず漢族移民からもい政治的・経済的・文化的抑圧を受け続けるという「二重の植民」下にあった原住民は、一九八〇年代まで「声なき声」であることを余儀なくされていたのだ。」
 「現在一六部族と認定されている台湾原住民は、一九四五から三〇年ほどで九〇パーセントがキリスト教徒(含カトリック教徒)となり、宗教離れが進んだ現在でも七〇パーセント以上がキリスト教徒である。」
 「急速なキリスト教化が少なからず原住民古来の文化を消失させた側面があったことは事実であろう。」
 「戦後台湾における原住民に民族的存続にとってはるかに大きな脅威だったのは、国民党政権による中国同化政策である。」
 「民族的尊厳が失われ存続の危機に瀕していた一九六〇年代から一転、一九七〇年代には原住民が自己の文化的アイデンティティの回復の必要性に目覚めていく。」「後の「原住民神学」の形成につながっていったのである。」
 「一九八〇年以降の台湾では、民主化は「本土化」」「という言葉で置き換えられるようになり、文学活動において「郷土文学」や「本土文学」が展開されたように、長老教会内では「郷土神学」や「本土神学」が展開されてきた。しかし「本土化」という概念は漢族本省人中心の政治イデオロギーに陥りやすく、ともすれば原住民の声は漢族主導の言説に取り込まれてしまう。」
 「国民国家という政治的枠組みでは説明しきれない台湾の存在を、より有機的に世界のダイナミズムにつなげていく作業」

 国民国家という近代の枠組みは、民族自決を後押しすると共に、国家に包摂される多様なエスニシティの同化・同一化という暴力となって作用する。そして、この枠組みがグローバル化の中で揺らいでいる。人類はいかんる共同性を目指すべきなのか、その中でキリスト教はいかなる役割を担いうるのか。台湾の現実も、こうした諸動向のせめぎ合いの中に存在する。

ブルンナー1

 わたくしは、『福音と世界』の連載において、現代神学について、100年という長さで考えること、そしてその前半と後半を、1970年代あたりで区分するという捉え方を提案し、この構図の中で、現代神学の動向を描いてきている。
 この枠組みで言えば、現代神学の前半には、同じ問題状況の中で同様の問題意識を共有しつつ、神学の変革を試み、世界的に活躍した神学たちが存在し、この時期を特徴付けていた。この世代の神学者はそれぞれ有名で多くの著作を残しており、また研究対象として取り上げられるようになってすでにかなりの蓄積が存在する神学者も含まれる。バルトとティリッヒはその代表であろう。しかし、この世代の神学者がいかなる神学を構想したかを解明しそれを評価する作業はむしろころからの課題であって、これまでの研究で最終結論が提出されたわけではない。また、十分な研究がなされることなく、名前だけが常に取り上げられるような神学者も少なくない。
このように考えるとき、特に日本では、たとえば、ブルンナーやブルトマンはまだ本格的な研究対象とされたとは言えない状況であり(例外的な研究は存在するが)、ゴーガルテンやヒルシュとなると・・・。
 そこで、本ブログでは、わたくしの手元にある文献の紹介を通じて、現代神学前半の神学者について考えてみたいと思う。まずは、ブルンナーである。(2017年度の学生の研究指導のためにブルンナーを若干、読み直したことも、ブルンナーを取り上げる動機となっている。)
 まず、この著作。

E・ブルンナー
『出会いとしての真理』
教文館/国際基督教大学出版局、2006年。


第一部 哲学的・科学的真理理解との比較におけるキリスト教的真理理解
  第一章 観念論と自然主義
  第二章 出会いとしての真理
  第三章 出会いとしての真理と科学
  第四章 結論

第二部 出会いとしての真理
  第一章 キリスト教史における客観主義と主観主義
  第二章 聖書の真理理解
  第三章 聖書の真理概念と義認の信仰
  第四章 聖書の真理理解と教理(一)
  第五章 聖書の真理理解と教理(二)
  第六章 聖書の真理理解と教会


解説あとがき

 この著作は、1937年にウプサラ大学で行われた蓮即講演をもとに、1938年にドイツ語で初版が刊行された。それに第一部を付加して、1963年に改訂されたのが、上の目次に占められた第二版である。
 バルトとの自然神学論争後の著作で、おそらく、ブルンナーの思想をよく表した内容と言える。「出会いとしての真理」という言葉は、ブルンナーは「序」で、「いわば直感を通してふいに立ちあられてきた」と述べているが、20世紀の前半の思想状況をよくあらわした用語と言える。 

技術と哲学、スティグレール6

 スティグレールの『技術と時間』シリーズの第三巻目、ここまでは邦訳が存在します。現代思想では、しばしば映画が題材になりますが、今回は現代メディアの問題が映画などから分析されます。ハイパーインダストリアル時代における人間の「生きづらさ」という問題にも関わる議論です。哲学者としては、今回は、フッサールからカントです。

ベルナール・スティグレール
『技術と時間3──映画の時間と〈難─存在〉の問題』
法政大学出版局、2013年。

緒言
序章

第一章 映画の時間
第二章 意識の映画
第三章 〈我〉と〈我々〉──アメリカの取り込みの政治学
第四章 われわれの教育施設の困難
第五章 差異を生み出すこと
第六章 科学技術の複製=再生産

訳者解説

 邦訳の目次では、章の下の区分、つまり節のタイトルも詳しく掲載されていますが、あまりにも、煩雑なため、省略しました。あしからず。

技術と哲学、スティグレール5

 スティグレールのシリーズ『技術と時間』の第2巻目の紹介です。第1巻目が、ギリシャのエピメテウス神話を素材として、人間存在にとっての技術の意味が論じられたのに対して、第2巻目は、記憶と技術との関わりがテーマとなります。前回がハイデッガーを参照していたのに対して言えば、今回は、フッサールの過去把持が参照・拡張されます。記憶と技術の問題は、現代技術における記憶の産業化の議論、そしてハイパーインダストリアル時代の分析(第3巻目)へと展開する上で、決定的な位置を占めています。

ベルナール・スティグレール
『技術と時間2 方向喪失・ディスオリエンテーション』
法政大学出版局、2010年。


第一章 正書法の時代
第二章 方向喪失の発生
第三章 記憶の産業化
第四章 時間対象と過去把持の有限性

訳者解説

哲学と幼児教育・保育

 大学などで教科として学び教える哲学と、幼児教育・保育とは、どのような関わりにあるかについては、ただちにはイメージしにくいかもしれない。しかし、「幼児教育」「保育」という営みが、基本的な人間理解に支えられている(はずである)こと考えれば、哲学と保育とは決して無関係でないことはむしろ当然と言わねばならない。
 こうした観点から、賀川豊彦の幼児教育論はこれまでも研究対象となってきたし、わたくしも以前に講演でこのテーマを取り上げたことがあり、いずれ、賀川研究という観点から、まとめる機会があるかもしれない。
 保育の前提に「保育とは何か?」の問いが存在するという視点から、ユニークな表題の教科書(?)が刊行された。

伊藤潔志編
『哲学する保育原理』
教育情報出版、2018年。

編集者のことば
本書の構成
本書の使い方

第Ⅰ部 保育を哲学する手がかりを探る
第1章 保育を現在から考える
 1分でわかるポイント!
 1-1 保育制度の現状
 1-2 保育・教科課程の現在
 1-3 待機児童の問題
 1-4 保護者との関係
 1-5 発達障害と療育
    Case Study あぶない子ども
    1.発達障害とは何か
    2.早期発見・早期療育
    3.保護者支援
 振り返ってみましょう

第2章 保育を過去から考える─思想と歴史─
 1分でわかるポイント!
 2-1 西洋における保育の歴史
 2-2 西洋における保育の思想
    1.オーウェンの性格形成学院
    2.フレーベルの人間教育
    3.モンテッソーリの感覚教育
 2-3 日本における保育の歴史1─近代─
 2-4 日本における保育の歴史2─戦後─
 2-5 日本における保育の思想
 振り返ってみましょう

第Ⅱ部 保育を哲学するとはどういうことか
第3章 哲学実践の基本を学ぶ
 1分でわかるポイント!
 3-1 哲学とは何か
 3-2 哲学を実践する
 3-3 哲学とケア論
    1.ケアって何だろう?
    2.「ケアする」という制度
    3.保育とケア論
 振り返ってみましょう

第4章 保育を基礎から考える
 1分でわかるポイント!
 4-1 保育とは何か
 4-2 子どもとは何か
 4-3 保護者とは何か
 振り返ってみましょう

第5章 保育を多角的に考える
 1分でわかるポイント!
 5-1 福祉とは何か
 5-2 教育とは何か
 5-3 養護とは何か
 振り返ってみましょう

第Ⅲ部 保育の基本と実践を哲学する
第6章 保育の基本を哲学する
 1分でわかるポイント!
 6-1 家庭とは何か
 6-2 環境とは何か
 6-3 遊びとは何か
 6-4 発達とは何か
 6-5 表現とは何か
 振り返ってみましょう

第7章 保育の実践を哲学する
 1分でわかるポイント!
 7-1 保育における集団と個人
 7-2 保育における子どもと哲学
 7-3 保育における経営の視点
 7-4 保育のける宗教の意味
    Case Study 宗教保育と憲法の問題
    1.信教の自由と宗教教育
    2.「宗教教育」の意味
 7-5 保育における現在と未来
 振り返ってみましょう

参考資料(平成29年3月告示)
 資料1:幼稚園教育要領
 資料2:保育所保育指針
 資料3:幼保連携型認定ことも園教育・保育要領

引用・参照文献
索引

巻末 レポート用紙

 「保育原理」の教科書ということと思われるが、「哲学する」という視点は、なるほどと思います。




プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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